後漢の方向性を決定付けた 官渡の戦い
三国志で赤壁の戦いとともに有名なのが官渡の戦い(かんとのたたかい)である。
西暦200年当時の中国で勢力を二分していた袁紹と曹操による戦いであり、勝者となった曹操が後漢末期の中心的存在となる事を決定付けた重要な戦いとして、今日まで語り継がれている。
三国志の入門編として多くのファンから親しまれている『横山光輝 三国志』では、官渡の戦いが完全にカットされているため重要度が分かりづらいが、官渡の戦いで勝った者が最大勢力として天下人に大きく近付く事を意味していたため、ファンの中には赤壁の戦いよりも官渡の戦いの方が重要である事を主張する者が多数存在する。
今回は、後漢の行方を決定付けた官渡の戦いについて解説する。
当時の二大勢力だった袁紹と曹操
各勢力が中国各地に散らばり、群雄割拠と呼ぶに相応しい状態だった190年代も終盤になると淘汰が進み、官渡の戦いが起きた200年の中国は袁紹と曹操が勢力を二分している状態だった。
大宦官曹騰の孫(正確には宦官の養子である曹嵩の息子)である曹操は、父親の曹嵩が霊帝から官位を買って大尉となり、当時の中国が徹底した血縁主義であった関係から曹操にとっても出世の足掛かりとなる。
家柄だけでなく、曹操自身も武将としても政治家としても超優秀だった事もあって順調に出世を重ね、ついには宮中に於いて献帝に次ぐ権力を持つまでの存在になる。(後漢末期の皇帝は政治的な権力も何もない、ただ「存在している」だけの存在だったので、曹操が事実上のナンバーワンとなっていた)
一方の袁紹だが、四世三公を輩出した名門、袁家の出身であり、彼の代名詞となっている「名門袁家」の看板によって多くの優秀な人材が集まっていた。
優秀な配下を武器に袁紹は勢力を拡大し、中国の北東部は完全に袁紹の支配下にあった。
また、袁紹と曹操の領地は隣接しており、天下を二分する両者の激突は時間の問題だった。
官渡の戦いの開戦
西暦200年、袁紹は曹操と雌雄を決するべく南下を開始する。
伝えられている兵力では袁紹軍10万、曹操軍4万と大きな差があり、一時的に曹操軍に在籍していた関羽の活躍によって白馬の戦いに勝利し、延津の戦いでも文醜を討ち取るなどいくつかの局地戦では勝っていたものの、戦力の差を埋める事は難しく、曹操軍は徐々に追い詰められていった。
この時、曹操軍が逃げ込んだのが、戦いの名前にもなっている「官渡城」である。
官渡は山や川といった自然に恵まれた天然の要害であり、曹操はかねてから防衛の拠点として砦を築いて来るべき決戦に備えていた。
城を包囲した袁紹軍だが、さすがの袁紹軍も強固な官渡城を落とすのは容易ではなく、苦戦を強いられる。
袁紹は穴を掘って地下から攻めようとしたり、櫓を作って高所から攻撃をしたりと手を変え品を変え城を攻撃するが、曹操も同じように穴を掘って袁紹軍を待ち構えたり、投石機を作って櫓を破壊したりと袁紹の攻撃に対応していた。
この時代の戦争は、攻撃側が仕掛けては守備側がそれに対抗する策を用意して迎え撃つ「いたちごっこ」であり、城攻めに関しても攻城兵器が発達するのと同時に城を守るための設備も大きく発達していた。
そして、官渡の戦いはお互いに決め手のないまま膠着状態となる。
勝敗を決めた許攸の裏切り
持久戦となった場合、先に兵糧がなくなった方が負ける。
兵糧面で苦戦していたのは曹操の方だった。
日々悪化する戦況に曹操は撤退を考えるまでに追い詰められるが、許昌を守っていた荀彧(じゅんいく)は「袁紹は主公(曹操)と違って人を上手く用いる事が出来ない」と袁紹の弱点を指摘する手紙を送り、弱気になっていた曹操を励ましている。
更に荀彧は「袁紹軍に必ず『何か』が起きるから、その時を逃さなければ勝てる」と、この後起きるターニングポイントを予言するような事も書き残していた。
荀彧の言う通り、袁紹軍から許攸(きょゆう)という者がやって来る。
戦況を有利に進めている袁紹軍を抜けて、わざわざ不利な曹操軍にやって来た理由を曹操は問い質すが、許攸の口から出たのは袁紹軍の兵糧庫が烏巣にある事と、烏巣の守備は手薄であるという戦況を左右するほどの重要な情報だった。
許攸は手薄となっていた許昌を襲撃して曹操軍の兵站を完全に切る策を袁紹に提案したが、受け入れられなかった。
今回の献策の却下に限らず、袁紹の自分に対する扱いに不満を持っていた許攸は袁紹を見限っていた。
重要な情報であるが故に曹操軍の中でも許攸の話を信じるべきか否かに分かれるが、曹操は今が荀彧の言った「その時」であると許攸を信じて、自ら烏巣へと出撃する。
許攸の言葉は正しく、淳于瓊(じゅんうけい)が守る烏巣の守備は手薄であり、曹操による烏巣襲撃の報告を受けた袁紹陣営は淳于瓊を助けるべきか、曹操のいない城を攻めるべきかで意見が分かれていた。
「曹操の本陣を攻撃すれば、敵軍は必ず引き返す」という郭図(かくと)に対して張郃(ちょうこう)は、官渡城が堅固である事を理由に「淳于瓊を早く救援するべき」と主張した。
袁紹は両者の意見を採用するが、淳于瓊の救出を主張した張郃に対して高覧とともに曹操不在の官渡城の攻撃を命じるという謎の采配をした挙げ句、烏巣に派遣した救援隊も曹操軍に壊滅させられた上に、淳于瓊も戦死するという最悪の結果を招いている。
一方、淳于瓊の救出を優先すべきという自分の意に反して官渡の攻撃を命じられた張郃だが、官渡を落とす事は出来ず、こちらも作戦は失敗に終わる。
このまま袁紹の本陣に戻っても自分に未来はない(事実、郭図が作戦失敗の責任を張郃になすりつけようとしていた)と悟った張郃は、高覧とともに曹操に降伏する。
途中まで戦況を有利に進めていた袁紹だが、烏巣の兵糧を失った事で致命的な打撃を受けたため撤退し、官渡の戦いは曹操軍の大逆転勝利に終わった。
官渡の戦いのその後
一大決戦に敗れた袁紹だが、自分達の領地を失った訳ではなく、官渡の戦いで多くの将兵を失ったとはいえ戦力的な充実度も依然として曹操軍より上だった。
実のところ、官渡の戦いだけに限って見れば袁紹が曹操相手に「まさかの敗戦を喫した」という程度の話で、袁紹が天下争いから脱落した訳ではなかった。
しかし、この敗戦によって家臣がお互いに責任の押し付け合いをするようになるなど、袁紹軍は組織として完全に崩壊しており、袁紹にとって官渡の戦いで負けた事よりも家臣の内部分裂の方が痛かった。
更に、袁紹の領有する冀州では官渡での敗戦から反乱が多発するようになり、袁紹は反乱の鎮圧に忙殺されるようになる。
201年、袁紹は倉亭で再び曹操と戦って敗れるなど最後までいいところなく、202年に病気のためこの世を去る。(演義で袁紹は倉亭で30万の大軍で曹操に挑んで大敗しているが、正史には詳細な記述がないため、どの程度の規模の戦闘であったかは不明である)
天下に最も近いと言われた男の最期はあまりに淋しいものだったが、官渡の戦いで曹操を撤退寸前まで追い詰めていた事は紛れもない事実であり、許攸の裏切りがなければ袁紹が勝っていた可能性も高かった。
結果的に官渡の戦いのすぐ後に袁紹が病没したため、袁紹には「敗者」というイメージが付き纏うが、袁紹の死から曹操が袁紹軍の残党を滅ぼして河北を平定するまで実に5年も掛かっている。
これは、官渡の戦いで甚大な被害を受けた後も、袁紹軍は依然として当代随一の大勢力だった事の証明である。
袁紹が病気になっておらず、家臣達も今度こそ曹操を倒すと一つに纏まって曹操に再度挑んでいれば、歴史は変わっていたかもしれない。
後漢末期の行方を決定付けた官渡の戦いは、赤壁の戦い以上に多くの「if」を残して現代の三国志ファンに語り継がれている。
騎馬全軍!