板部岡江雪斎とは
板部岡江雪斎(いたべおか こうせつさい)は、北条氏三代に仕えた僧でありながら外交を担当した武将である。
北条氏滅亡後は、豊臣秀吉と徳川家康に仕えて、激動の戦国時代を生き抜いている。
一度は死を覚悟しながらも、強気な弁舌と茶道の力で豊臣秀吉に気に入られ、戦国時代を生き抜いた板部岡江雪斎について迫る。
僧と武将の二刀流
板部岡江雪斎(いたべおかこうせつさい)は、天文6年(1537年)相模国の北条家に仕える田中泰行の子として、伊豆の下田で生まれる。
詳しい資料は残っていないために、どのような経緯で僧になったのかは不明だが、江雪斎は嫡男以外の男子であったために僧となったと考えられる。
江雪斎は本名を「田中融成」といい、真言宗の僧になり「江雪」という僧名であったために「江雪斎」と一般的に呼ばれたため、ここでは江雪斎と記す。
江雪斎の田中家は鎌倉幕府の第14代執権・北条高時の子孫であったという。
僧でありながらとても優秀な人物であったために北条氏政に見いだされ、跡目がなかった北条家の家臣・板部岡康雄の養子となり家督を継いで「板部岡融成」となり、氏政の右筆と評定衆となって主に外交面で重要な仕事を任された。
寺社奉行を任されて、北条家の寺社の管理を行った。
僧としては主君・北条氏康が病気で床に伏した際に鶴岡八幡宮で祈祷を行い、また佐竹氏との戦勝祈願も行いながら伊豆七島の代官職も任されて、僧と武将の二足のわらじを実践していた。
大失敗
元亀4年(1573年)江雪斎は主君・北条氏政の命で、その死が噂された武田信玄の生死を確認するために「病気見舞い」の名目で甲斐を訪れた。
この時、信玄の弟・信廉が影武者となって対応したが、江雪斎は見抜けずに「信玄生存」と氏政に報告してしまう。
後に影武者だったことが分かり、江雪斎は大失敗してしまうが、氏政の信頼は厚くその後も外交僧として重要な仕事をしていく。
本能寺の変で織田信長が亡くなると、北条と徳川家康は信濃を巡って対立する。
天正10年(1582年)天正壬午の乱となり、この時に江雪斎は北条氏直の名代として和睦交渉にあたる。
江雪斎は家康の娘・督姫を氏直の正室に迎い入れて、北条家に有利な条件で和睦を成立させている。
この和睦を成し遂げた江雪斎は小田原奉行衆の筆頭となり、戦で出陣した際には小田原城の留守を任されることが多くなっていく。
小田原征伐
天正17年(1589年)沼田領問題で北条と豊臣秀吉の対立が深まると、江雪斎は北条氏規と共に関係修復に動き、北条氏政・氏直親子の上洛を秀吉に約束した。
江雪斎は茶道にも造詣が深く、詩歌にも優れた才能があったために秀吉にとても気に入られて、秀吉自ら茶をたててもてなしたという。
しかし、上洛に関しては北条家内部(北条氏照や家老・松田憲秀)の反対があり、氏政は翌年に上洛すると秀吉に延期を申し入れた。
これに秀吉が怒り、天正18年(1590年)秀吉は諸大名に対して小田原征伐を命じた。
22万を超える大軍に包囲された氏政・氏直親子は降伏し、氏政は切腹となり、氏直は高野山に追放となった。
江雪斎は小田原城で氏直の夫人(徳川家康の娘・督姫)を守り、小田原城開城の際に家康に引き渡し、その直後に生け捕りとなった。
秀吉に今回の戦となったことを責められ「戦を起こして北条家が滅んだことは江雪の思慮をもってもどうしようもない。むしろ滅ぶ運命だったのだろう。日本全国の大軍を迎えて一戦交えたことは北条氏の面目にとってこれ以上のことはない。遠慮せずに我が首をはねよ。」と命乞いもせずに秀吉に言い返した。
秀吉は考えを変えて「はりつけの刑にでもしようと思ったが、主人を少しも批判しないことは誠にあっぱれ!一命は助けるからこれからは豊臣に仕えよ。」と江雪斎を許して、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう:主君のそばで話相手をする役)に加えた。
秀吉の御伽衆は一説には約800人とも言われ、元将軍や旧守護家の出身者など出自が高い者が多く、織田家の一門や目上の武将が多かったという。
秀吉は読み書きが不得手で、それを補うために当初は御伽衆を集めたが、この頃は由緒ある血筋や家柄の良い者を従わせることで、自分の力を固辞する意図があったとされている。
秀吉はお茶に造詣が深く詩歌にも教養があり、弁舌がたつ江雪斎を御伽衆の中でも特に目をかけていたという。
江雪斎は秀吉の命で「岡野」姓を与えられて岡野融成に改名させられ、秀吉の命で交渉に出向いて話をまとめて期待に応えたという。
家康につく
秀吉の没後も江雪斎(岡野融成)の評価は高く、長男の岡野房恒が徳川家康に仕えていたために、江雪斎も家康から家臣として招かれた。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいては井伊直政や本多忠勝と共に関ヶ原に先行して、小早川秀秋の寝返りの説得に関わる。
戦後、家康から知行加増の恩賞を与えられるが、江雪斎は辞退している。
すると家康は江雪斎が馬好きだったことから、馬飼領として恩賞を与えたという。
その後も家康の側で仕えたが、慶長14年(1609年)6月3日、京都の伏見で病死した。享年69歳であった。
おわりに
板部岡江雪斎は北条氏康・氏政・氏直と3代に渡って外交僧として和睦交渉などで活躍し、北条家最大の領国支配を支えた。
交渉術とお茶に通じていたために秀吉や家康に認められ、天下人たちにその実力を請われたとても優秀な人物であった。
僧と武将の二刀流では安国寺恵瓊や太原雪斎などの軍師的な武将が有名だが、弁舌という武器で戦国時代を生き抜いた数少ない武将であった。
この記事へのコメントはありません。