「代理戦争」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
大国同士の対立を背景として、その大国同士が直接戦争をするのではなく、別の国を大国が支援し、大国の代理として戦争をするという構図だ。第2次世界大戦後のアメリカとソ連の「冷戦」構造下で行われた朝鮮戦争やベトナム戦争などがその例に挙げられることが多い。
日本ではあまり馴染みがない言葉だが、実は過去に代理戦争が行われていたという見方もある。それが幕末の日本の転換点となった戦争、「戊辰戦争」だ。
戊辰戦争の当時、世界から見た日本とはどのような地域だったのか、諸外国からの干渉を受けながら、なぜ日本は植民地化の憂き目を見なかったのか、この記事で解説してみよう。
幕末有力藩と幕府・海外との関係
戊辰戦争・倒幕運動と不可分な問題として、攘夷運動が挙げられる。
1858年に幕府が各国と調印することになった通商条約は、当時攘夷派に属していた薩摩藩などの反発を招いた。そもそも幕藩体制下においては、薩摩藩・長州藩などの西南雄藩は、諸外国との貿易における関税収入を幕府が独占していることにも不満を持っていた。
そんな情勢下、薩摩藩では1862年に英国人との傷害事件である生麦事件、その賠償問題がこじれたことによる薩英戦争が起こった。
長州藩では攘夷の決行として関門海峡を通過する外国商船へ砲撃を加えたものの、アメリカ・フランスからの報復攻撃によって砲台を占拠されるという下関戦争が起こっていた。幕末における2大有力藩であった薩摩・長州藩はいずれも、武力による攘夷が不可能であることを身を以て理解させられることとなった。
大政奉還では止まらなかった武力衝突
海外勢力との直接の戦闘を経て現状での攘夷実行が不可能であることを悟った薩摩藩・土佐藩・長州藩は以降接近していくことになった。この段階では、徳川慶喜の大政奉還により、幕府勢力と倒幕勢力との大規模な武力衝突はなかった。
しかし、徳川慶喜をはじめ、当時京都守護職を務めていた会津藩主・松平容保や京都所司代を務めていた松平定敬の排除にこだわる倒幕勢力は、勤王派浪士を使って、旧幕府勢力を様々な方法で挑発し、旧幕府勢力側から戦端を開かせようと画策した。これにより、鳥羽・伏見の戦いをはじめとした「戊辰戦争」が勃発することになる。
以降、旧幕府勢力は彰義隊による上野戦争をはじめ、奥羽越列藩同盟を結成して東北を経て北海道・函館へ至るまで各地で戦闘を行うこととなる。
世界情勢の中での日本の「幕末」
さて、目を海外に向けると、当時の世界の中心はヨーロッパだった。
1840年、当時アジアの中心であるだけでなく、「眠れる獅子」として諸外国からも恐れられていた清が、アヘン戦争によりイギリスに大敗していた。世界はすでに、軍事力に劣る国家は戦争に敗れるか、不平等な条約によって実質上の植民地化されるかという、世界を舞台にした戦国時代であったと言ってもよいだろう。
鎖国体制から通商体制へ移行した日本もまた、当然諸外国にとっては「植民地候補・自由貿易対象」であったことは間違いない。事実、長州藩が四ヶ国連合艦隊に敗れた際、山口県下関にある「彦島」の租借を要求されている。この要求は、清の状況から諸外国の手口を勉強し尽くしていた高杉晋作が頑として受け入れなかったため実現しなかった。
ただし、当時、イギリスやフランスが植民地を持つための典型的な方法は、武力によって植民地を築くというよりも、「内戦状態の国に高額な武器を大量に売りつけ、その代金として領土を租借・または所有する」というものだった。
結局のところ日本は戊辰戦争という内戦に突入し、新政府側は、トーマス・グラバーを通じてイギリスから武器を輸入しているし、旧幕府勢力はジュール・ブリュネらフランス士官の派遣を受けたり、フランスから武器の輸入を行っている。
ちなみに、直接の影響は限定的であるが、1870年に行われた「兵制統一布告」において、陸軍はフランス式、海軍はイギリス式として、明治期の旧日本軍の初期兵制が整備されている。
日本が植民地とならなかった理由は?
イギリス、あるいはフランスは、戊辰戦争以前やその当初は、戊辰戦争を徹底的に長引かせ、大量の武器を売りつけることで日本を借金漬けにしようとした。その目的には、可能ならば一国で、それができなければ英仏で日本の領土を二分するという程度の譲歩を含めた目論見や議論があったのではないかと予想できる。
しかしながら、戊辰戦争・箱館戦争は早期に終結し、また、イギリス・フランスもまた日本を植民地化するためにはハードルが高い状況に置かれていた。イギリスはインド・中国の植民地経営によって赤字がかさみ、領土を得るよりも貿易によって外国から利益を得るという形にちょうど国家戦略が切り替わった時期だった。フランスは軍人の派遣や武器の輸出を行うなど積極姿勢を見せてはいたものの、イギリスを差し置いて日本を支配し、日本との交戦やそれに付随しての他国家との利益衝突に直面し勝利できるほどの国力はなかった。
日本が英仏や、その後に台頭する米露の植民地とならなかったのは、戊辰戦争・箱館戦争の早期終結という軍事的・政治的な成功、いち早く明治新政府の体制を整えたこと、そして、諸外国のそれぞれの事情という、「絶妙のタイミング」に救われた形だったのだ。
おわりに
泥沼の戦場となり南北に多くの犠牲者を出したベトナム、現代に至るまで南北に分断されている朝鮮半島、いまなお政情不安が続く中東地域など、「代理戦争」の犠牲となった地域は多い。また、当時の列強によって植民地となったインド、列強と直接戦火を交えた結果、国内に多くの(実質上の)植民地を置かれた中国などは、必ずしも幸福な歴史であったとは言い難いだろう。
戊辰戦争については、現代まで旧幕府側と新政府側との間で遺恨を残している人々もいる。しかしながら、世界の中の日本という国の歴史として見れば、ある意味では幸運な結末であったともいえる。
少なくとも、戊辰戦争は「旧態依然とした悪者である頑迷な幕府を倒し、自分たちで新しい時代を作る」という、正義と希望に溢れた青年たちの美しい情熱が成し遂げたストーリーとして片付けるべき事件ではなかったのだ。
近代日本においてとりわけ重要な意味を持つ内戦を乗り越え、日本では幕府と武士という一つの時代が終わりを告げた。新しい時代を担う明治政府はその後、これまでのどの敵よりも手強い「国際社会」という難敵との戦いに突入していく。それはまた別の機会に解説しよう。
「彦島」租借要求は伊藤のホラ話ではないのですか?