マリ―・アントワネットというと、放蕩のあげくに処刑された王妃というイメージから、あまりいい印象ではない方も多いのではないでしょうか?
フランス財政の半分を遊興費に費やしたなど、途方もない贅沢を楽しんでいたというエピソードも残されています。
そんなマリ―・アントワネットですが、一体どのような女性だったのでしょうか。
マリ―・アントワネットの生涯
マリーアントワネットは1755年、オーストリア・ハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア=テレジアの間に生まれました。
当時のオーストリア宮廷は家庭的であり、三歳上の姉マリアが嫁ぐまで同じ部屋で育ち、家族で狩りに向かうなど、家族仲は非常によかったと言われています。
1770年、マリ―・アントワネットとフランス王太子ルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて行われました。当時のオーストリアはプロイセンの脅威から、フランスとの同盟関係の強化を図っており、この結婚もそのためのものでした。ただし、夫ルイとの夫婦仲は悪かったようで、実母マリア=テレジアは性生活の有無を案じて長兄夫婦に相談に向かわせるほどだったそうです。
1789年、フランス革命が勃発します。彼女は祖国オーストリアの兄を頼るためにフランスを脱走しようとします。スウェーデン貴族のフェルセンの助力により馬車で宮殿を逃げ出しますが、国境近くのヴァレンヌにて身元が発覚してしまいます。この事件で国民の王室への反感が一層、強くなりました。
1792年、フランス革命戦争が勃発すると、オーストリア出身であるマリ―・アントワネットが敵軍に情報漏えいをすると疑われ、王室一家はタンプル塔に幽閉されます。
1793年1月、夫であるルイ16世に死刑判決が下されます。
その後、マリ―・アントワネットも裁判にかけられ、無罪を主張しますが、10月16日、夫と同じく死刑判決を下されます。
マリ―・アントワネットの人物像
引用) マリー・アントワネットは王党派のたたえるような偉大な聖女でもなければ、革命が罵るような淫売でもなく、平凡な性格の持ち主であり、本来はあたりまえの女であって、とりたててかしこくもなければ、とりたてておろかでもなく、火でもなければ氷でもなく、・・・悲劇の対象にはなりそうもない女であった。
<ステファン=ツヴァイク/藤本敦雄・森川俊夫訳『マリー・アントワネットⅠ』1935 全集13 みすず書房 p.1-3,p.151-172>
オーストリアの伝記作家・ステファン=ツヴァイクの言葉です。
しかし、聡明ではないゆえに、彼女の持つ欠点が隠しきれないままに誇大に広められ、それがフランス国民の反発を招いてしまいました。
・頑固さ
結婚後まもなく、ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人と対立します。
マリ―・アントワネットは潔癖な母の影響を強く受けていたため、愛妾という立場に露骨に嫌悪を見せました。
デュ・バリー夫人は宮中で影響力の強い人物でもあったため、王太子妃という立場であっても安易に対立すべきではなかったでしょう。また、マリ―・アントワネットは寵臣とそうでない相手との扱いの差が露骨であったため、寵愛を受けなかった家臣がこぞってデュ・バリー夫人のサロンに向かい、マリ―・アントワネットの悪口を広めたと言われています。
また、スウェーデン貴族のフェルセンをあまりにもひいきにしすぎた故に、不倫関係を疑われるなど、人間関係構築での不器用さは否定できません。
・経済観念の乏しさ
ヨーロッパ一の名家に生まれ、フランス王太子に嫁ぐという経歴から、経済には疎かったと言われています。
1787年の名士会では、要求するとそれ以上の金額を持ってきてくれるのだから、財政難など言われるまで気付くはずがないと発言したそうです。
ただし、当時のフランスの支出のほとんどがマリ―・アントワネットのせいと革命当時は言われていましたが、当時の王室にかかる費用は全体の6パーセントほどであり、財政を圧迫していたのは主に軍事費でした。また、「パンがなければケーキを食べればいい」という有名な発言も、彼女のものではなかったと後に証明されています。
ジャン・ジャック・ルソーが、著書『告白』の中でさる大公夫人の言葉として書きましたが、1766年頃に執筆された本ですので、フランス革命とは時代が若干違います。
また、彼女の出費はその全てが自分のためではありませんでした。
未婚の母が暮らす家を国費で提供していたり、飢饉のときには宮廷で募金をつのり、貧しい人々に食糧を渡すこともしていました。
おわりに
国家財政を傾けた放蕩の王妃、マリ―・アントワネットですが、その実像はどこにでもいる普通の女性でした。
ただ、欠点をカバーする知恵がなかったが故に、国民の支持を得ることができず、最後は死刑に処せられてしまったのです。
もしも普通の家に生まれてきていたら、ごく普通の娘として、母として、平凡だけれども幸せな一生を送ることができたのかもしれません。
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