はじめに
天正10年(1582年)6月2日、天下統一を目前にした織田信長(おだのぶなが)が、家臣・明智光秀(あけちみつひで)の謀反によって非業の死を遂げた「本能寺の変」が起きた。
この時、信長だけではなく後継者である信忠も光秀に討たれてしまった。「本能寺の変」は天下人とその後継者が同時に亡くなるという前代未聞の事件であった。
京都には信長の常宿とされている場所が3か所あった。
今回は信忠の視点から「なぜ信長は本能寺に泊まったのか?」について検証してみる。
本能寺の変の謎
光秀が謀反を起こした動機については「恨み説・野望説・陰謀説・黒幕説(朝廷・足利将軍・豊臣秀吉・徳川家康・イエズス会)」など、様々な説がある。
信長が討たれたことで日本の歴史は大きく変容したが、家督を譲られていた嫡男・信忠が討たれたことも後世の歴史に大きな影響を与えたと言えよう。
もし、信忠が生きていたならば後継者争いで分断することもなく、例え信長が討たれても織田家が天下を治めていた可能性も十分に考えられる。
織田信忠とは
織田信忠は、弘治3年(1557年)織田信長の長男として尾張国で生まれる。側室・久庵慶珠が産み、その後、正室・濃姫が養子としたという説もある。
顔の形・目や鼻の形は信長にそっくりであったという。
信長が設けた男子は長男・信忠をはじめ次男・信雄、三男・信孝など11人であった。
信忠以外の男子は早くから養子に出されている。戦国時代は戦略上などの理由で嫡男以外の男子を養子に出すことは当然のことであった。
生まれながらにして信長の後継者として成長した信忠だったが、信長の帝王学は厳しかったようで、こんな逸話が残されている。
織田家の家臣が信忠を褒めて「信忠様は皆の予想にたがわぬ行動をされる器用な方だ」と言うと、信長は「家臣に手の内を読まれるなど信忠は大将の器ではない」とバッサリ言い切り「そうであれば信忠を我が後継者にする訳にはいかない」と言ったという。
また、こんな逸話もある。
信忠は自ら能を舞うほど異常なほど能を好んだという。
それを聞いた信長は「武将たる者が能にうつつを抜かすなどもってのほか」と怒り、能に使う道具をことごとく取り上げたという。
信長から後継者としての資質を疑われた信忠であるが、いったいどのようにして信長からの信頼を勝ち得たのだろうか?
天正3年(1575年)5月、織田・徳川連合軍と当時戦国最強と謳われた武田軍との「長篠の戦い」で、織田・徳川連合軍は武田軍に完勝した。
この機に乗じて織田軍は武田領東美濃を攻略、その総大将に抜擢されたのがわずか19歳の信忠であった。
武田軍の東美濃の拠点となった岩村城は標高717mにある巨大な山城で難攻不落の要塞とされ、信忠軍が包囲するも井戸があったために水断ちという戦法が取れず、約5か月も岩村城を落とせずにいた。
そこに長篠戦いの敗戦から息を吹き返した武田の援軍が迫って来た。
岩村城に籠城していた武田軍は援軍到着前に出撃して信忠軍を攻め立てたが、信忠は自ら先陣として出陣。
夜襲をかけてきた武田軍を返り討ちにし、敵の大将格21人を討ち取り、ついに岩村城は落城。信忠は大きく武名を上げた。
天正4年(1576年)11月、信忠は美濃東部と尾張国の一部を与えられて岐阜城主となった。
信忠は自らの武勇を示すことで信長からの信頼を勝ち取ったのである。
信忠が天下人の後継者としての地位を盤石にしたのは、天正10年(1582年)の甲州征伐である。
信忠は総大将として美濃・尾張の軍勢5万を率いて徳川家康・北条氏政と共に武田領に侵攻した。
信濃南部の武田方の拠点で最大の激戦となった高遠城攻めでは自ら前線に赴き、総攻めの采配をふるった。
武田が誇る高遠城はわずか1日で落城。戦国最強と謳われた武田軍を相手に自ら先陣を切る信忠に、信長は「うかつに前に出るな、武田を弱敵と侮るな」と苦言を呈している。
そんな信長の心配をよそに信忠は快進撃を続けて武田勝頼を自害に追い込み、武田家は滅亡。信忠軍が武田領に侵攻してわずか1か月であった。
武田家滅亡によって東からの脅威が無くなり、ここに至って信長は「信忠に天下を譲る」と宣言した。
天下人の座を継ぐことになった信忠、それは本能寺の変の3か月前であった。
なぜ信長は本能寺に泊まったのか?
なぜ信長が本能寺に泊まったのかについては、信忠が大きく関係している。
本能寺の変の2日前の天正10年(1582年)5月29日、信長は安土城を出て京都に向かうが、この時わずか20~30人の供回り(小姓たち)の者と上洛した。
秀吉の援軍として中国に向かうために、安土城に残る者には戦の準備のために待機させた。信長の命令が出てから出陣するので小姓衆以外は随行しなかったのだ。
当時の織田軍は関東に滝川一益、北陸に柴田勝家、四国攻めのために神戸信孝(織田信孝)と丹羽長秀、中国に羽柴秀吉が各地に展開していた。
秀吉は、備中高松城で毛利と対峙して信長に援軍の派遣を要請していた。
大規模な軍事遠征を間近に控えて上洛した信長の宿泊場所となったのが本能寺であった。
信長が宿泊した当時の本能寺があった場所は、現在の本能寺の場所から南西におよそ1km離れた所にあり、水堀などの防御施設はあったが京都の総構え(惣構)と呼ばれる防御施設の外側に位置していた。
京都の市街地の一番外側にあり攻められやすい場所にあった本能寺に、なぜ信長は宿泊したのであろうか?
信長が上洛した時に宿にしたのは主に、本能寺・二条御新造・妙覚寺の3つであった。
二条御新造には14回、妙覚寺には20回宿泊しているが、本能寺はわずか4回しか宿泊していない。
この時、信長が一番多く宿泊した妙覚寺には、信長が上洛する8日前に信忠が500の兵と共に先に宿泊していた。
本能寺と比べて2倍の大きさがあったため、信長が信忠に譲った形になった。
妙覚寺に向かい合った場所にあったのが二条御新造で、信長が京都の宿泊場所として築いた屋敷である。
しかし、皇太子・誠仁親王に居宅として譲っていたために、信長は必然的に本能寺に泊まるしか選択肢がなかったのである。
なぜ信長と信忠は同時に京都にいたのか?
朝廷に対し信長は右大臣・右大将という官位を返上していた。それはその官位を信忠に譲ろうとしたためである。
右大将は武家の棟梁を意味し、源頼朝が賜った官位である。
当時の信忠の官位は従三位・左中将であった。信長は信忠の官位を武家の棟梁である右大将に引き上げるために、公家衆への工作を行っていた。
それまで信長は公家衆との対面を面倒くさがり断ることが多かったが、今回の上洛では公家衆40人と数刻に渡り雑談に応じ、自慢の名物茶器を披露するなど気遣いを見せている。
つまり、信長・信忠は中国地方への援軍と官位の工作のために、同時に京都に上洛していたと考えられる。
だがこの時(6月1日)明智光秀の1万3,000の軍勢が、本能寺目がけて進軍を開始していた。
本能寺の変と信忠の決断
6月2日早朝、明智軍1万3,000の軍勢が本能寺を襲撃した。
この時、信長は「信忠の別心(謀反)か?」と叫んだという記録が残っている。それほど明智軍の襲撃は想定外な出来事だったのだ。
本能寺から信忠の宿泊場所の妙覚寺までは600mほどで、明智軍の鬨の声は信忠にも届いていた。
父・信長のいる本能寺が明智軍に攻められている。信忠はどうするべきか苦悩した。究極の選択肢だったと言えよう。
・何はともあれ本能寺へ駆け付け、父・信長の救出に向かうべきか?
しかし、信忠が率いていたのはわずかに500の兵で、明智軍に敵うはずはない。・ひとまず京都から脱出して安土城に戻るのが天下人の後継者としての役割ではないのか?
天下の名城・安土城で光秀と対峙していれば、やがて各地の織田家臣団が戻って来てくれるはず。光秀を討つのはそれからでも間に合う。・籠城して謀反人・光秀に一矢報いることこそ武家の棟梁たる者の務めでは?
戦わずに死ぬなどとなれば武士の一分が立たず。
考えた末に信忠が出した答えは「籠城して明智軍を迎え撃つ」であった。
信忠は誠仁親王を二条御新造から脱出させて、わずかな兵と共に二条御新造に籠城した。
明智軍の本能寺への攻撃はわずか1時間ほどで終わり、光秀の次の標的は妙覚寺にいる信忠であった。
信忠の500人の兵の中には逃げ出す者もいて、重臣の中には「京都から脱出するべき」と進言する者もいたが、信忠は「光秀のことだからきっと京都のあらゆる出口に手を回しているはずだ」と、その意見を受け入れなかった。
信忠は大手門を開門し、そこに敵を集中させて押し寄せる大軍勢を3度に渡って押し返した。
実は信忠は新陰流の免許皆伝者であり、自ら剣を振るい敵を17人も切り捨てたという。
しかし、多勢に無勢、獅子奮迅の活躍を見せた信忠は家臣に「縁側の板を引きはがし、遺体を床下に入れて隠せ」と命じた。
燃え盛る炎の中、信忠は切腹し壮絶な最期を遂げた。享年26であった。
父・信長と同様に信忠の首も明智軍に発見されることはなかった。
おわりに
実は本能寺の変の時、光秀は京都の出口を抑えてはいなかった。
もし、信忠が安土城に逃げていれば助かった可能性は十分にあったのである。
信忠亡き後の織田家は、次男・信雄と三男・信孝の家督争いで力を失い、山崎の戦いで謀反人・光秀を討った秀吉が天下人となり、その後、天下は家康のものとなる。
もし、信忠が京都を脱出する選択をしていれば、歴史は大きく変わっていたのかもしれない。
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いやぁ、確かに信忠が生きていたら秀吉の天下者なかったはず、これは面白い、明智光秀は信忠が逃げることは?
だから、歴史は面白い