朝廷と幕府
承久3年(1221年)後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が、鎌倉幕府執権の北条義時(ほうじょうよしとき)に対して討伐の兵を挙げた。
この「承久の乱(じょうきゅうのらん)」は、朝廷が武家社会という新興勢力に対抗し復権を目指した初めての武力抗争である。
保元の乱・平治の乱により貴族階級が衰退し、武士階級が飛躍的な台頭を見せ、源頼朝は文治元年(1185年)初めての武家政権となる鎌倉幕府を開いた。
以降、東日本の幕府と西日本の朝廷の二頭政治となり、朝廷では新興の武家政権への反感が募っていった。
後鳥羽上皇を倒幕「承久の乱」へと駆り立てたものとは何だったのだろうか?
後鳥羽上皇とは
後鳥羽上皇は、治承4年(1180年)高倉天皇の第四皇子として「尊成親王(たかひらしんのう)」として生まれる。
母は高倉天皇の後宮「藤原殖子(ふじわらのしょくし)」で、治承2年(1178年)生まれの安徳天皇とは異母弟にあたり、共に後白河法皇の孫同志という関係であった。
後鳥羽上皇が生まれた治承4年(1180年)は、武家社会の最高権力者・平清盛が自分の娘・徳子と高倉天皇の間に生まれた、わずか2歳の幼き皇子を第81代「安徳天皇」として即位させた激動の時代であった。清盛は天皇の祖父となり平家一門はさらに強大な権力を持つことになった。
この年、後白河法皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)が「平家打倒」の令旨(りょうじ・皇太子や皇后などの命令を伝える書)を出した。
以仁王が令旨を出した背景には、平家の力で弟・高倉天皇が院政を行い、その皇子・安徳天皇の即位によって自身が天皇に即位する可能性が無くなったことへの不満があった。
だが、平家打倒の計画はすぐに平家の知るところとなり、以仁王はあえなく討たれてしまう。
しかし、諸国の平家一門に不満ある武士たち、特に平治の乱で父・源義朝を討たれて伊豆の流刑人となっていた源頼朝を筆頭に、打倒平家の武士たちが各地で挙兵した。
この年から始まる「治承・寿永の乱」は、源平合戦から奥州藤原氏滅亡まで続くのである。
治承5年(1181年)平清盛が亡くなった。跡を継いだ平宗盛には清盛のような強い支配力がなく、後白河法皇に政治の主導権を返上した。
その後、平家は木曽義仲軍に追われて、寿永2年(1183年)安徳天皇と天皇の位を示す三種の神器「八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)」を持って京を離れて都落ちし、西国へと向かった。
都に天皇がいない状態となったために後白河法皇と公卿たちは協議を行い、当時4歳だった尊成親王を即位させることに決めた。
この時、後白河法皇は天皇を支配してきた平家への遺恨と討伐への決意が固まり、同年8月20日後白河法皇の院宣を受けて尊成親王は第82代・後鳥羽天皇として即位した
後鳥羽上皇は、三種の神器のないまま即位式を行った初めての天皇となったのである。
平家と共に西国に逃れた安徳天皇が退位しないまま、新たに後鳥羽天皇が即位したため、平家滅亡までの2年間は2人の天皇が存在することになってしまった。
文治元年(1185年)壇ノ浦の戦いで平家は滅亡し、安徳天皇は入水して崩御、その時に三種の神器の一つ「草薙剣」が海に沈んだとされている。
後鳥羽天皇は霊力を持つと言われる「三種の神器を持たない天皇」という烙印が押され、そのことは終生心の片隅に陰を残すことになる。
即位した後も後白河法皇による院政は続き、建久3年(1192年)後白河法皇が崩御すると朝廷の実権は関白の「九条兼実(くじょうかねざね)」が握った。
この年、後鳥羽天皇は源頼朝を征夷大将軍に任命し、武家政権による鎌倉幕府が本格的に始動した。
建久9年(1198年)後鳥羽天皇は19歳という若さで「土御門天皇(つちみかどてんのう)」に譲位して後鳥羽上皇となった。
その後、「順徳天皇(じゅんとくてんのう)」、「仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)」と、3代・23年に渡って院政を敷くこととなる。
19歳という若さで譲位をして上皇になったのは、象徴である天皇よりも上皇の方が自由度があり権力もあったからである。
後白河法皇を見てきた後鳥羽上皇は、同じように院政を敷いて朝廷内で絶大な権力をふるっていくのである。
文武に秀でた異色の上皇
和歌の三代集と言われるのは「万葉集」「古今和歌集」「真古今和歌集」である。
新古今和歌集は後鳥羽上皇が藤原定家に編纂を委ね、古今和歌集を上回る約2,000首が収められている。
後鳥羽上皇は「和歌は世を治め、民をやはらぐる道である」と説き、武力ではなく文化力で治世を行いたいという願いもあった。
和歌を愛する後鳥羽上皇は武家社会にも影響を与え、貴種(きしゅ・高貴な家柄に生まれる)に憧れる東国の武士たちの中には、後鳥羽上皇が発信する王朝文化に惹かれる者も数多く現れるのである。
その中には鎌倉幕府第3代将軍・源実朝もおり、彼は新古今和歌集をいち早く手に入れて和歌を学び、藤原定家を師と仰いだ。
こうして源実朝と後鳥羽上皇は深く親交を結んだという。
また、後鳥羽上皇は文武両道の人物で、通常貴族は行わない弓馬の術に秀で、武術の訓練や水練や相撲もこなし、自ら刀も作ったという。
芸事にも精通し、琵琶(びわ)、蹴鞠(けまり)なども楽しみ、あらゆることに先頭に立って意欲的に取り組み、盗賊を捕らえるために自ら出動したという逸話まで残されている、まさに異色の上皇であった。
承久の乱の背景
平安時代まで、朝廷や貴族の収入源となっていたのは荘園だった。
全国各地にあった権力者の私有地である荘園からの献上品(租税)は、朝廷と貴族の経済的基盤となっていた。
だが幕府がその荘園の管理を全国の守護や地頭に移したことで、朝廷や公家への収入は激減してしまった。
源頼朝が鎌倉に幕府を開き、幕府は東日本、朝廷は西日本と支配は分かれていたが、建久10年(1199年)頼朝が亡くなると幕府の態勢は揺らぎ始める。
幕府の中で内紛が繰り返されるようになり、頼朝の跡を継いだ2代将軍・頼家が暗殺されてしまう大事件が起こったのである。(※背景には頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立があった)
そしてまだ幼い頼家の弟・実朝(さねとも)が3代将軍となったために、幕府の実権は頼朝の妻・北条政子とその弟・北条義時が握ることとなった。
お飾り将軍の座についた実朝は、同じように幼くして天皇になった後鳥羽上皇に共感を覚え、朝廷から政(まつりごと)を学ぼうと自ら後鳥羽上皇に接近し、和歌や蹴鞠などの宮廷文化に傾倒していったのである。
しかも実朝は周囲の反対を押し切って、京から坊門信清(後鳥羽上皇の外叔父)の娘・信子を正室に迎え、これによって実朝と後鳥羽上皇は義理の兄弟となったのである。
さらに実朝は、幕府が避けていた朝廷からの官位を強く求めるようになる。後継ぎが出来なかった実朝は官位によって将軍としての権威を高めようとした。
そして後鳥羽上皇は、そんな実朝に望み通りの官位を与え異例の出世をさせた。
これには後鳥羽上皇による思惑があった。実朝に官位を授けて取り込むことで幕府を掌握し権威を回復しようと考えたのである。
実朝の暗殺
後鳥羽上皇と北条氏との間で板挟みになってしまった実朝は次第に和歌を作らなくなり、いつまでたっても後継ぎが出来ないことに絶望してしまい、今まで以上に官位を欲しがりその言動がおかしくなっていったという。
中国の宋からやって来た者が実朝を訪ね「あなたは宋で名高い長老の生まれ変わりです」と言った。
すると実朝は「そう言えば昔、夢の中に現れた高僧にも同じことを言われた。宋に何かあるかも知れぬ」と、宋に渡るための船を建造させて周囲を啞然とさせたという。
結局実朝がその船で宋に渡ることはなかったが、明らかに言動はおかしくなった。
幕府と朝廷の関係も悪化していき、これを修復すべく動いたのが北条政子だった。
政子は将軍の跡継ぎ問題のために上洛し、実朝の次の将軍に後鳥羽上皇の皇子を東下させることを相談し、内諾を得て鎌倉に戻った。
しかし建保7年(1219年)実朝は、源頼家の子で甥の公暁によって暗殺されてしまった。(※公暁もその後すぐに討ち取られた)
暗殺の理由ははっきりはしていないが、公暁は実朝を「父の仇」と恨んでおり、幕府内での頼家派(比企氏)と実朝派(北条氏)の遺恨であると考えられる。
将軍不在となり源氏の血が途絶えたことで、北条家に反発する勢力が乱を起こすようになった。
尼将軍
そこで幕府は、北条政子が内諾を得ていた後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを朝廷に求めた。
しかし後鳥羽上皇は「そのようなことをすれば日本を二分することになる」と拒否してしまった。
後鳥羽上皇は使者を鎌倉に送り、皇子東下の条件として上皇の愛妾(亀菊)の荘園の地頭の罷免を提示したのである。
執権・北条義時はこれを許せば幕府の根幹を揺るがすと当然拒否し、弟の北条時房に兵を与えて上洛させ皇子の東下を再度交渉するも、上皇は再度拒否した。
後鳥羽上皇は実朝を取り込んで幕府から権力を奪うことを画策していたが、実朝が亡くなってはそれを実行に移すことは出来ず、権威を取り戻すには武力行使しかないと考えたのだ。
そこで執権・義時は皇族将軍を諦め、摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えることにした。(※三虎は源氏とは遠縁ながら血縁関係でもある)
時房はまだ2歳であった三寅を連れて鎌倉へ帰還した。
三寅を後見した北条政子は将軍の代行をすることになり「尼将軍」と呼ばれるようになる。
承久の乱
承久3年(1221年)皇権の復権を望む後鳥羽上皇と幕府の対立は深まり、5月14日に後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え(やぶさめぞろえ)」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1,700騎余が集まった。(※流鏑馬を行うので腕に覚えのある者は参加せよという名目だった)
その中には有力御家人の尾張守護・小野盛綱、近江守護・佐々木広綱、検非違使判官・三浦胤義も含まれていた。
幕府の出先機関である京都守護・大江親広は京方に加わり、同時に親幕派の大納言・西園寺公経は幽閉されてしまった。
翌15日、京方の藤原秀康と近畿6か国守護・大内惟信率いる800騎が京都守護の伊賀光季邸を襲撃、光季はわずかな兵で奮戦したが討死、下人を落ち延びさせて変事を鎌倉に知らせたのである。
後鳥羽上皇は、三浦氏・武田氏・小山氏など有力御家人に「北条義時追討」の院宣を発する。
同日、朝廷からも諸国の御家人・守護・地頭ら不特定の人々に義時追討の「官院旨」が出されている。
京方の士気は上がり「朝敵となった以上は義時に参じる者は千人もいないだろう」と楽観的になったという。
それは過去に朝廷からの院宣が出された人物が討ち取られなかったことはなかったからで、それほど朝敵追討という院宣には絶対的効果があった。
後鳥羽上皇らは院宣によって諸国の武士たちはこぞって味方すると楽観視していた。
上皇挙兵の知らせが鎌倉に届いたのは19日、鎌倉の武士たちは大いに動揺したが、北条政子は御家人たちに鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴えた。
政子の大演説に御家人たちの動揺は鎮まり、義時を中心に鎌倉武士が集結。京へ向けて東海道・東山道・北陸道の三方から軍勢を派遣した。
軍勢の数は徐々に増えて最終的には19万騎に膨れ上がったという。
「鎌倉武士たちは院宣に従い、義時を討伐するであろう」と幕府軍の出撃を予測していなかった後鳥羽上皇ら京方首脳は狼狽した。
後鳥羽上皇方は藤原秀康を総大将として1万7500騎余で幕府軍を迎え撃ったが多勢に無勢、各地で敗北を重ねた。
勝てぬと悟った後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り「この度の乱は謀臣の企てであった」として義時追討の院宣を取り消した。そして藤原秀康・三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を下した。朝廷の為に戦ってくれた彼らを見捨て、逆臣としたのである。
後鳥羽上皇に見捨てられた彼らは東寺に立て籠もって抵抗したが、三浦胤義は自害し、藤原秀康らは幕府軍の捕虜となった。
戦後
7月、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に配流された。
倒幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国に配流された。
後鳥羽上皇の皇子たちも配流され、仲恭天皇は廃されて行助法親王の子(後堀河天皇)が即位、親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経は内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになる。
後鳥羽上皇の膨大な荘園は没収されて行助法親王に与えられたが、支配権は幕府が握った。
幕府は京に六波羅探題を設置して朝廷の監視を強化、皇位継承を含む朝廷に対する幕府の統制も強化された。
京方の公家や武士の所領約3,000箇所も没収されて幕府方の戦功があった御家人たちに分け与えられた。
以降、幕府と北条執権家の力は西国にも強く及ぶようになるのである。
おわりに
武家社会からの復権を望んだ後鳥羽上皇は3代将軍・実朝を利用しようと画策したが、実朝が暗殺されてしまいその計画は頓挫してしまう。
そこで朝廷が持つ絶対的権威の「院宣」によって執権・北条義時討伐を狙った武力行使「承久の乱」を起こしたが、それも失敗に終わってしまった。
幕府の実権も「承久の乱」によって完全に執権・北条家(得宗家)のものとなり、これ以降の幕府将軍は完全にお飾りになってしまった。
朝廷は完全に幕府に従属させられ、皇位継承まで管理されることになり、この状態は建武の新政まで続くことになる。
後鳥羽上皇の起こした承久の乱は、皮肉にも北条家の力を大きく増大させる結果となったのである。
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