南北朝時代

北条家最後の当主〜 北条時行の逃げまくりな人生 「逃げ上手の若君 鎌倉を3度も奪還」

北条時行とは

人気少年漫画雑誌「少年ジャンプ」で現在連載中の「逃げ上手の若君」の主人公として描かれている人物が、北条得宗家の最後の若君・北条時行(ほうじょうときゆき)である。

北条時行

北条高時

鎌倉幕府第14代執権として実権を握っていた父・北条高時(ほうじょうたかとき)の次男として生まれた。当時の鎌倉幕府は後醍醐天皇が打倒幕府を掲げた「元弘の乱」の鎮圧に動いた有力御家人・足利尊氏(あしかがたかうじ)が離反したことで形勢が不利となり、新田義貞も鎌倉攻めに挙兵した。

父・高時を始めとする北条一門の多くが自害したが、次男であった時行は家臣(被官)の諏訪盛高によって鎌倉から逃亡した。兄・邦時は逃亡中に殺されてしまった。
当時10歳ほどの幼子であった時行は、諏訪盛高の本拠地である信濃国に渡り匿われた。

北条一族を裏切った足利尊氏への報復と鎌倉幕府再興の夢を胸に秘め、その後、信濃国で挙兵した時行は鎌倉奪還へと動き出す。

何度かの窮地を逃げ延びて、不屈の戦いを続けた北条得宗家の最後の若君・北条時行の壮絶な生涯について解説する。

出自

北条時行は正中2年(1325年)以降に生まれたとされていて、生年については不明である。

父・北条高時は鎌倉幕府の事実上の支配者である北条氏の嫡流・得宗家の当主であり、兄・邦時が正中2年(1325年)生まれなので、時行はそれ以降に生まれた北条得宗家の次男である。

幼名は文献によって異なり「勝長寿丸」「勝寿丸」「亀寿」「亀寿丸」「全嘉丸」、通称は「相模次郎」であるが、ここでは一般的に知られる「時行」と記させていただく。

後醍醐天皇像

元徳3年(1331年)鎌倉幕府を打倒しようと後醍醐天皇が挙兵し「元弘の乱」が勃発した。

当初戦局は鎌倉幕府・北条氏に有利だったが、翌年に武家の名門・足利氏の当主である足利高氏(後の尊氏)が後醍醐天皇方に離反したことで、幕府の西国監視機関である六波羅探題が壊滅する。

元弘3年(1331年)5月22日、有力御家人の新田義貞が鎌倉を攻めた「東勝寺合戦」では、時行の父・高時を始めとする北条氏一門の多くが自害、源頼朝から続いた鎌倉幕府はついに滅亡した。

幼かった時行は被官(家臣)である諏訪盛高におんぶされながら鎌倉から抜け出し難を逃れ、諏訪氏の本拠地である信濃国(現在の長野県)の諏訪大社を奉じる諏訪神党のもとに匿われた。

一方、兄・邦時は、逃亡中に家臣の裏切りによって新田方に捕縛されて処刑されてしまう。

こうして北条得宗家の正当な血を受け継ぐ者は、時行1人となってしまったのである。

建武の新政

鎌倉幕府倒壊後、後醍醐天皇が開始した「建武の新政」では武士の不満が爆発し各地で反乱が起こった。それらの半数以上は北条氏に関係する者たちによって引き起こされたものであった。

後醍醐天皇は北条氏への忠誠が強かった氏族らや北条氏に関係が近い者たちのほとんどを、建武の新政では中枢機関には用いなかった。
倒幕に功のあった足利高氏は後醍醐天皇から「尊」の字を賜り「尊氏」に改名し、後に鎮守府将軍に任命されている。

しかし所領問題や訴訟・恩賞請求の殺到、新設された期間に置かる権限の衝突などの混乱が起き、建武の新政は早くも問題が露呈するようになっていた。

中先代の乱

建武2年(1335年)6月、関東申次を務め北条氏とつながりが深かった公家の西園寺公宗(さいおんじきんむね)らが、京都に潜伏していた北条高時の弟・泰家を匿い、後伏見天皇を擁立して政権転覆を企てようとしたが、陰謀が発覚してしまう。

西園寺公宗らは誅殺されたが、北条泰家は難を逃れ各地の北条氏の残党に挙兵を呼びかけた。

建武の新政に不満を持つ在地の武士たちが旗頭として北条氏を担ぎ上げ、奥州北部・北九州・南関東・日向・紀伊・長門・伊予・京の8か所で北条氏による反乱が発生した。

同年7月14日に信濃国に潜伏していた時行は北条氏の残党を束ね、信濃国で諏訪頼重・頼重親子や滋野氏、諏訪神党らに擁立されてついに挙兵したのである。(中先代の乱
※「中先代 : なかせんだい」とは時行のことで、鎌倉幕府の北条氏「先代」、室町幕府の足利氏「当代」との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代と呼ばれた。

時行の挙兵に応じて北陸では北条一族の名越時兼が挙兵した。しかし京都の建武政権は当初反乱軍が時行を擁しているという情報を掴んではいなかった。
建武政権は、反乱軍は木曽路から尾張に抜け最終的に京都に向かって来ると予想していたので、鎌倉将軍府の執権・足利直義への連絡が遅れてしまった。

北条時行

足利直義。Wikipediaより

勢いに乗った時行率いる反乱軍は、建武政権の予想に反して武蔵国に入り鎌倉に向けて進軍する。

7月20日頃には鎌倉将軍府の軍を女影原(現在の埼玉県日高市)で破り、今川範満の軍を小手指ヶ原(現在の埼玉県所沢市)で、救援に来た下野国守護の小山秀朝の軍も打ち破った。
そして鎌倉から出陣した足利直義の軍をも破るのであった。

鎌倉には尊氏の子・義詮や後醍醐天皇の皇子・成良親王らがいたが、足利直義は彼らを連れて鎌倉を逃れた。

直義は建武の新政から失脚し幽閉されていた後醍醐天皇の皇子・護良親王を鎌倉から逃げる際に密かに家臣に殺害させている。
それは護良親王を将軍とし、時行を執権とする鎌倉幕府が再興され、建武政権に対抗する存在となるのを恐れたからだと考えられている。

7月24日に鎌倉将軍府は鶴見(現在の神奈川県横浜市鶴見区)で最後の抵抗を試みるが、有力武将の佐竹義直らが戦死。翌25日に時行はついに鎌倉に入り、一時的に鎌倉を占拠し支配することに成功するのである。

さらに時行軍は逃げる足利直義軍を駿河国手越河原で撃破する。直義は8月2日に三河国矢作に拠点を構え、中先代の乱を京都に伝え、成良親王を返還した。

時行軍侵攻を知らされた建武政権では、足利尊氏が後醍醐天皇に対して「時行討伐の許可」と同時に武家政権の設立に必要な「総追捕使」と「征夷大将軍」の役職を要請する。
しかし後醍醐天皇は尊氏の征夷大将軍の要請を拒否し、尊氏は8月2日に勅状を得ないまま出陣し、後醍醐天皇は尊氏に征東将軍という号を与えた。

北条時行

足利尊氏像

尊氏は弟・直義と合流し、8月9・12・14・17・18日と各地で激戦を行った。

時行軍は次第に劣勢となり、徐々に戦線後退していった。

時行に従った武士たちには北条一門もいたが、大部分が諏訪氏のような御内人であり、千葉氏・宇都宮氏・三浦氏など関東の有力武家の庶流の出身者が多数含まれていたが、佐竹氏や小山氏など鎌倉将軍府に出仕していた旧幕府の官僚は時行には従わなかった。

そのため鎌倉に入った時行は公式の幕府文書を発給することが出来ず、19日には時行の父親代わりである諏訪頼重らが相模国辻堂で敗れ、追い詰められて鎌倉・勝長寿院で自害した。
この時、頼重ら43人は自害の際になんと顔の皮を剥ぎ、誰が誰だか分からない状態にしたという。これは時行の生死を隠すためだったとされている。

そのため時行もこの場で一緒に自害したように思われたが、実は時行は逃亡に成功していた。

時行と御内人の挙兵・中先代の乱は結果的には御内人同士の戦いとなってしまい、時行が望んだ鎌倉幕府再興の可能性を失わせると共に、後の室町幕府の形成のきっかけとなってしまうのであった。

※中先代の乱で敗れるまで時行の愛刀は北条得宗家重宝の太刀である天下五剣の1つで「鬼丸国綱(おにまるくにつな)」であった。この太刀を持った北条家・新田義貞・足利尊氏・足利義昭・織田信長・豊臣秀吉が亡くなったことで徳川家康はこの刀を恐れたという。

時行の選択

中先代の乱から逃亡した時行は、鎌倉幕府を倒すきっかけとなった宿敵・足利尊氏と、その前に討幕を掲げた後醍醐天皇の両者がいわゆる仇であった。
しかし、世の中の情勢が変わり南北朝の内乱という時代に入った時、生き延びた時行は究極の選択を迫られる。

鎌倉からの逃亡を余儀なくされた時行は雲隠れしていたが、南北朝の争いを契機に再度鎌倉奪還を目指して動くことを決意するのである。
そこで時行は悩み抜いた末に、「やはり復讐すべき宿敵は足利尊氏だ」として、それまで宿敵だった後醍醐天皇方の南朝につくことにした。

経緯を考えると時行は後醍醐天皇に殺されても仕方のない立場であり、一か八かの究極の選択であった。
だが、時行は自分と父・高時の朝敵赦免と共に南朝への帰属を許可された。

かつての敵である南朝に帰参した理由には諸説があり「育ての親である諏訪頼重の仇を討ちたかった」という説や「それまで手を結んでいた光厳上皇が尊氏と手を結んだことでこれを上皇の裏切りだとし、尊氏と戦う道を選んだ」という説がある。

南朝の武将として

北畠顕家

延元2年・建武4年(1337年)南朝鎮守府大将軍・北畠顕家(きたばたけ あきいえ)の奥州遠征軍に呼応し、時行は南朝の武将として5,000騎で挙兵し転戦しながら大活躍する。
死んだかと思われていた時行の復活劇は、尊氏を始め世間を仰天させたという。

北畠顕家・時行連合軍は鎌倉の攻略戦を開始し激戦となったが、ついには足利家長を敗死させ、2度目の鎌倉奪還に成功する。

この後も交戦を続けたが、石津の戦いにおいて総大将・北畠顕家が戦死してしまう。総大将の敗死によって征西遠征軍は瓦解したが、時行はなんと再び逃亡し雲隠れに成功した。

それから数年後の興国元年・暦応3年(1340年)時行は、亡き諏訪頼重の孫・諏訪頼継と共に信濃・大徳王寺城で再び挙兵し、4か月も籠城する。
大徳王寺城は結局落城してしまったが、時行はここでも落城前に脱出に成功し逃亡。

またもや雲隠れをするのであった。

鎌倉占拠

それから12年経った正平7年・文和元年(1352年)北朝内で内紛が勃発する。

これを好機と捉えた北畠親房は京都と鎌倉の同時奪還を企み挙兵、この時に時行も新田義興らと共に上野国で挙兵し鎌倉へと進撃を開始する。

そして武蔵野合戦で足利基氏を破った時行は、3度目の鎌倉占拠に成功するのである。

しかし、別で戦っていた味方の新田義宗の敗北によって形勢が一気に不利となり、またもや時行は鎌倉を脱出する。

この時の鎌倉占拠も前回同様20日程度であり、逃亡した時行はまたもや雲隠れし潜伏生活を送るのであった。

最期

潜伏生活を続けていた時行だったが、正平8年・文和2年(1353年)5月、約1年の足利方の懸命な捜索の末に遂に捕らえられ、鎌倉龍ノ口(現在の神奈川県藤沢市)で斬首される。

これにより北条氏の嫡流・得宗家は断絶してしまうのだが、時行が伊勢に渡ったという生存説もあり、後北条氏の祖・北条早雲が時行の子孫だという言い伝えもある。(あくまで伝承で真偽は定かではない

また、時行と熱田大宮司家の女の間に北条時満が生まれ、北条家の血はつながっていたなどの伝承がある。

生年がはっきりしていないので、時行が亡くなった時に何歳だったのかは謎である。(20代半ばと推測されている

おわりに

北条時行

北条時行終焉の地と伝わる龍口刑場跡

北条得宗家の最後の若君として鎌倉幕府再興のために何度も挙兵し、中先代の乱を含めて3回も鎌倉を一時的とはいえ占拠・奪還した北条時行。

いずれも20日程度の支配だったため時行は「甘日先代(はつかせんだい)」とも呼ばれた。

完璧な鎌倉奪還は出来なかったが、生涯に渡り足利尊氏に対抗し続け、尊氏を恐れさせた。

鎌倉幕府再興のために生涯戦い続けた北条時行という武将がいたことは、漫画「逃げ上手の若君」で、これから知れ渡っていくはずである。

 

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コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 5月 28日 8:16am

    私は個人的に歴史、特に日本史が好きで武道や剣道をやっていたからrapportsさんの記事が個人的に好きです。
    鎌倉殿の13人の祖となる北条時政、大泉が殺してばかりの非人間・頼朝よりも今ジャンプで連載している「逃げの上手の若君」のほうが人間味があっていいですわ!
    少年月間マガジンに連載された「修羅の刻」のモデルとなった竹内久盛から興味を持って見ています、rapportsさんは例えば同
    じ水野勝成は引き込まれた。さすがは草の実堂さん、いい投稿者を見つけましたね、ありがとうございました。
    批判したくはないが、最近大河ドラマのネタバレ記事がおおいのでは?平安貴族の女の結婚や家紋など、昨年はほとんど触れなたった大河ドラマ以外も頼みますよ、草の実堂さん

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  2. アバター
    • 名無しのBさん
    • 2022年 6月 04日 6:06am

    rappotsさんの記事漫画のモデルや剣豪が多くて面白い。
    松山主水や柳生連矢斎や小笠原長治とかスゴイ!
    その視点が素晴らしい。頑張って面白い題材を頼みます。

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  3. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 6月 07日 8:13pm

    マンガ好きで歴史好きはこの記事、ネタバレだけど絶対に読むよ、こんなに逃げるし、こんなに向かって行くんだ若君が!

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  4. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 6月 21日 10:26pm

    今、ジャンプで連載しているのを題材に選ぶ、しかも大河の鎌倉殿の13人に関係する主人公、
    さすがは草の実堂さん、漫画や大河ドラマ両方を網羅していて最高です。

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