孔子の弟子
中国春秋時代の思想家「孔子」。
彼には3000人もの弟子がいたとされ、その中でも優秀な弟子は72人であったという。
この数字は実際の正確な数を表したものではない。なぜなら、弟子の大部分は孔子思想の基本概念を学び終えると、その後はそれぞれの生活に戻っていっからだ。
一部の弟子たちが孔子の思想を極め、生涯にわたって弟子となり、後にその者も師となり弟子をとった。
そして後に、幾人かの優秀な弟子が名を上げた。
孔子の学費
孔子が金銭を受け取ったという記録はなく、10本の干し肉を受け取っていた。
10本の干し肉と言ってもその量は決して多くなかったという。ある記録によると二匹のウサギの肉で十分な量であった。そう考えると、裕福な家庭ではなくとも用意できるレベルであった事がわかる。孔子は人の経済状況を見て、弟子をとったわけではなかった。
その例として、孔子の弟子の中でも優秀であった「顔回」という人物があげられる。
彼の家庭は非常に貧しかったが、孔子は彼を門下へと迎え入れた。
他にも孔子の家を管理していた「原思」という人物がいたが、彼の家庭も貧しかった。
原思はある時、沢山のアワを献納された。
原思は多すぎると思い受け取りを拒もうとした。孔子はそれを制して「故郷の両親に送ってやりなさい。」と言ったという。
孔子は憐れみ深く、寛大であったことがわかる。
孔子は当時、魯の国の高官であった。身分は低くなく肉が不足していたということは考えられない。つまり生活のために学費を受け取っていたのではない。孔子は簡素な生活を好み、美食を追求する人ではなかった。
では、なぜ学費を受け取っていたのか?
古い言葉に「禮聞來學,不聞往教」というものがある。
これは誰かに「学びたい」という気持ちがあるなら、礼儀としてそれに見合ったものを送るのは当然だ。という意味である。
「師を重んじ、その教えに見合ったものを支払う」という礼儀を弟子に教えるためだった。
孔子の授業スタイル
孔子の教育スタイルは「自由」であり、彼の思想の重要な部分であった。
孔子が弟子を連れて各国を周り、思想を説いたというのは有名な話である。どんなところでも孔子がいる場所は教室になった。自身が困難に直面しても教訓を持って弟子に教えることを怠らなかった。
授業の雰囲気は、リラックスして活気に溢れたものだったという。
授業の際、最も主要な方法は質疑応答だった。弟子が発言する方が多く、口喧嘩を始めてしまうほどに白熱したものだった。
現代の教育現場のように教授が一方的に話し、生徒は受け身といった授業スタイルとは異なるものだった。
授業は科目ごとに細かく別れていたわけではない。孔子はそれぞれの個性を尊重し、各々の得意分野、興味がある分野について話させたという。
今でいう「総合教育課程」である。
弟子がまず質問し、それに孔子が一つづつ答えていくといった形である。
ある弟子は、戦の戦略に関して、ある弟子は歴史など、それぞれが持つ考え方を次々に孔子に投げかけた。
孔子は弟子の思考力を育て、受け身ではなく自主性を重んじた。師への反対意見を提示し、疑問をどんどん投げかけるのが良い弟子とされ評価された。
人の好奇心や関心を最大限に伸ばしてやることを重視した教育だった。
自分から動かずとも勝手に情報が入ってくる現代。必要なのは、孔子が推奨したこのような自由な教育ではないだろうか。
弟子の優秀さが分かりにくかった
でも教育のやり方よくわかった