戦国時代

強いだけじゃないんです!戦国時代「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄の偉業「信玄堤」

戦国時代「甲斐の虎」と恐れられ、天下に名を馳せた武田信玄(たけだ しんげん)

その偉大さについて語る時、多くのファンは数々のライバルを撃破した戦さ上手を挙げることでしょう。

落合芳幾「太平記英勇傳 武田大膳大夫晴信入道信玄」

確かに軍神・毘沙門天の化身とも言われた「越後の龍」上杉謙信(うえすぎ けんしん)と互角に渡り合い、天下に覇を唱えた織田信長(おだ のぶなが)でさえ一目置いたと言いますから、それも間違いではありません。

しかし信玄の偉大さ、現代でも多くの地元民が信玄「公」と敬愛するのは、戦さ上手よりも国内統治の功績にあります。

こと治水においては画期的で、人々はその偉業を後世に語り継ぐべく、その堤防を信玄堤(しんげんづつみ)と呼びました。

国は水から治めるもの。数百年を経た現代も活用され続ける信玄堤(および一連の治水事業)の偉大さを今回は紹介したいと思います。

このままでは甲斐国が……父を追放し、治水事業に着手

甲斐国……現代の山梨県に当たるこの国は、かつてしばしば水害に見舞われていました。

その一因として、国内を流れる釜無川(かまなしがわ)と、その支流である御勅使川(みだいがわ)の合流に問題があったと言います。

御勅使川は扇状地を流れるため方向が定まらず、常に川筋が暴れて流域の村が水害に遭うことに加え、絶対的な水量が多すぎるため合流地点でも川が氾濫してしまうのです。

今でこそ御勅使川と雅びやかな名前ですが、かつては「乱れ川」「水出し川」と呼ばれていたとか。

武田信虎公銅像。画像:Wikipedia(撮影:江戸村のとくぞう氏)

早くもそれに気づいた信玄公でしたが、当時はまだ父の武田信虎(のぶとら)が当主の座にあり、自分の裁量で治水事業を行うことはできません。

信虎も治水事業をおろそかにしていた訳ではないものの、ようやく甲斐国を統一した信虎は、武田の威信を隣国に知らしめんとばかり信濃国へ進出しようと躍起です。

このままでは甲斐国内が荒廃の一途をたどるばかり……そんなこともあって天文10年(1541年)。父を駿河国へ追放した信玄公は、信濃進出と同時並行で治水事業に着手しました。

十数年がかりの大事業

「まずは、川筋を真っすぐにせよ」

扇状地をランダムに流れる御勅使川を真っすぐに誘導(護岸など)することで、流域の水害リスクを低減します。しかしこのままではまだ水量が多く、合流地点から氾濫してしまいます。

信玄堤イメージ。国土交通省 中国地方整備局 太田川河川事務所より

「次に、水量を減らすため上流で川を分岐させるのじゃ」

御勅使川の上流に将棋頭(しょうぎがしら)と呼ばれる石造りの堤防を築かせ、そこから川を分岐させることで、それぞれの水量を減らしたのです。

(厳密には新たな川の方が低くなっているため、元の御勅使川には増水時のみ水が流れました)

トータルの水量は同じでも、段階的に増水させれば勢いが弱まります。将棋頭によって分岐した新たな御勅使川は、割羽沢(わっぱざわ)の比較的小さな流れと合流。

新たな御勅使川の中にも第二の将棋頭を築くことで水流の勢いを弱め、念には念を入れています。

「さて、ここまで来たらいよいよ本流の釜無川に手を着けるぞ!」

とは言え、これだけ大きな川だとその水量は膨大で、とても押さえきれるものではありません。そこで信玄公は発想を変えました。

「川はどうしても暴れるものだから、無理に押さえつけるのではなく、その力を逃がして被害を軽減しよう」

という訳で新旧の御勅使川から流れ込んでくる水流を弱めるべく、それぞれの突き当り地点を護岸します。

それから水流に対して雁行(がんこう。斜めに沿わせる形)の小さな堤防をたくさん築いて少しずつ勢いを緩和。

この堤防の間にはあえていくつかの隙間を設け、氾濫した時は水を逆流させる(勢いを殺す)形で背後の遊水地へ水を流し込みました。

びっしり堤防でふさいでしまうと、決壊した時の被害が甚大になってしまいますが、こうすることで緩やかに水を溜めていくことが可能です。

果たして堤は永禄3年(1560年)に完成。十数年にわたる大事業を成し遂げると同時進行で、隣国の信濃もその大半を制圧していました。

当時は地名をとって竜王川除(りゅうおうかわよけ。川除は水防事業およびその施設)、御川除などと呼ばれたとのこと。竜王(竜、竜神など)とは水害の象徴であり、往時の激しさが偲ばれます。

持続可能なメンテナンス体制も忘れずに

さて、造ったはいいものの、こういう大規模工事はメンテナンス費用もかかることを忘れてはいけません。

戦国時代、こうした公共事業は大名自身でなく受益者負担……要するに「恩恵を受ける地元住民でカネや資材、人員を用意せよ」というのが基本でした。

でも、ただでさえ生活が苦しいのに大規模工事にリソースをとられたらおまんまの食い上げ……そこで信玄公は考えます。

若き日の信玄公。高野山持明院蔵

「よし。竜王川除に移住した者は棟別銭(むなべちせん。家屋税)はじめ賦役(納税や労役)の一切を免除するぞ!」

という旨を記したのがこちらの文書。

於龍王之川除(竜王の川除において)
作家令居住者(家を作り居住せしむ者は)
棟別役一切可(棟別銭と賦役の一切を)
免許者也(免除すべきものなり)
仍如件(よってくだんの如し)
永禄三庚申
八月二日

※武田家朱印状「保坂家文書」

竜王川除に住んで年貢やもろもろ一切免除されれば、心置きなくメンテナンスに力を注げるという案配。

また、堤防の上に神社を建てることでそこの住民を加護すると共に、多くの参拝客が地盤を踏み固めてくれる効果も狙ったと言います。

こうして持続可能な水防事業を実現した信玄公は、末永く領民たちから敬愛されたのでした。

終わりに

そして歳月が流れ、武田家は滅亡しても信玄堤は受け継がれ、たびたび改修されながら現代に至ります。

現代の信玄堤。信玄公の知恵が偲ばれる。画像:Wikipedia(撮影:さかおり氏)

自然の脅威を前に、ただ力づくで立ち向かうだけではなく、相手(ここでは水)の特性を活かして柔軟に対応した信玄公。

彼の柔軟な姿勢はその戦いぶりにも現れており、その名を天下に轟かせたのも頷けますね。

※参考文献:

  • 『水の国やまなし 信玄堤と甲斐の人々』山梨県立考古博物館、2013年
  • 川戸貴史『戦国大名の経済学』講談社現代新書、2020年6月
角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

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