お茶と言えば静岡県というイメージがあるほど、静岡はお茶の名産地として有名である。
静岡茶は、宇治茶、狭山茶と並んで日本三大茶とされ、お茶の生産量は日本一である。
静岡県の伊豆の国市は源頼朝が流刑された地であり、現在「鎌倉殿の13人」で、歴史的な話題も集めている。
古くから歴史の舞台に多く登場してきた静岡の地であるが、いつからお茶の名産地となったのであろうか?
静岡茶の始まり
鎌倉時代、臨済宗の僧・円爾(えんに)が仏教修行のため渡った宋から茶樹の種を持ち帰り、駿河国足窪に植えたことが静岡茶の始まりと伝えられている。
南北朝時代の文書にも静岡茶が贈り物として届けられた記録が残っており(※師守記)、江戸時代には、参勤交代の武士や多くの旅人が道中でお茶を購入し、江戸への出荷量も増えていたという。
しかし江戸時代におけるお茶の名産地といえば「京都の宇治茶」であり、将軍が飲むお茶も「宇治茶」と決まっていた。
つまり静岡では昔からお茶は作られていたが、当時は「名産地」というほどではなかったのである。
生産量が増えたのは明治以降
静岡県でお茶の生産量が一気に増えたのは明治時代からである。
江戸時代、静岡内の江戸へ通づる街道にある川には橋がなく、運び手が肩車をして旅人を渡していた。これは江戸の防衛のためであり大井川だけでも800人もの運び手が働いていた。
しかし明治時代になると江戸防衛の必要性がなくなり、橋がかけられたり渡し船が使われるようになった。
そして職を失った多くの運び手たちが、お茶の栽培を始めたという。
また、大政奉還後に最後の将軍である徳川慶喜は、家督を息子・家達に譲った。
家達はその後、静岡藩70万石に移封され、慶喜、家達に付き従い多くの幕臣が駿府に移ったが、仕事が少なくお茶の栽培を始める者が多かったという。幕府の精鋭隊だった中條金之助ら約300名の武士は帰農している。
つまり、当時の失業対策として県内だけでなく県外からのニーズもあり、新規でお茶の栽培を始める者が急増したのである。
当初は日常品やお中元などでお茶が使われることが多かったが、香典返しの定番品として扱われるようになってから一気に売上が伸びたという。
参考文献 : 地理の話大全
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