名君も堕ちる「傾国の美女」
楊貴妃は、中国唐代の皇妃。しがない下級役人の娘だったところ、その美貌で時の皇帝を魅了し、寵妃の座にまで上り詰めました。
皇帝の後宮には約三千人もの美姫がいたと言われます。
美女三千人の頂点に立ち、皇帝の寵愛を独占したその美しさは本物か、はたまた後世の創作なのでしょうか?
豊満な体型
優れた容姿を持つ美人を表す「玉肥燕痩(ぎょくひえんそう)」という言葉があります。
意味は「太った楊貴妃、痩せた趙飛燕」です。
このように、楊貴妃は太めであったというのが一般的な意見です。しかし、ただの肥満体型とは違いました(というのも、彼女は舞踊の名手として有名であったため、太っていたとは考えにくからです)。
胸やお尻が大きな豊満な体型、つまり、現代でいうとグラビアアイドルのような、メリハリのあるグラマーな体型でした。唐代では柳腰つまりくびれたウェストが美しいとされており、胸からお尻にかけてのカーヴラインは特に魅力に溢れていました。
東アジア人は平面的でいわゆる寸胴体型が多いのですが、凹凸のある体型であったのは、南方の胡族(=異民族)の出身もしくは混血だったからとも言われています。
楊貴妃には梅妃というライバルがいました。
梅妃は小柄で細身の女性でしたので、彼女と比較すると豊満な楊貴妃は太っている印象を与えてしまいました。また、楊貴妃に限らず胸が大きい女性は太ってみられがちです。
こういった点から、後世にぽっちゃりのイメージが残りました。
モチモチの美肌
白居易の長恨歌の一説に「春寒賜浴華清池 温泉水滑洗凝脂」とあります。
訳すと「まだ春の寒いころ、華清池という温泉を賜った。温泉のお湯は滑らかに白く艶のある肌を洗う。」という意味です。
この一文の「凝脂」とは、ラードのように白くて艶のある肌のことを表します。字面からもモチモチ、ツヤツヤの美肌が伝わってきます。
また、楊貴妃は大のお風呂好きとして有名です。長恨歌では温泉とありますが、王宮でも入浴は欠かすことはなく、ボディケアを怠りませんでした。
ちなみに、豊満な体型にお風呂好きということで、楊貴妃を描いた絵画は入浴図が定番の構図となっています。
さらに、楊貴妃の好物であるライチも重要です。ライチにはビタミンCが豊富に含まれています。
ビタミンCは、紫外線の吸収を防ぎ、メラニンの生成を抑制する美白効果があります。現代でも美白や美肌に効果があることから、美容に良い食品とされています。
日々の丹念な入浴と美容に良い食生活。これらが楊貴妃の美しい肌を作り、維持していました。
魅惑の香り
楊貴妃は中国四大美人の一人にも数えられています。
四人それぞれに別名があり、楊貴妃は「羞花美人」と呼ばれます。楊貴妃の美貌と芳香に気圧された庭の花々が、恥ずかしさのあまりしぼんでしまった、という逸話が由来です。
唐の時代は香りも美人の条件の一つとされています。
しかし楊貴妃は体臭、特にワキガが酷い体質でした。このきつい体臭は、彼女が胡族と血縁関係にあったからではないかと考えられています。
体臭を隠すため、楊貴妃は「体身香」という丸薬を飲用していました。
体身香とは、漢方や生薬などから香りが強いものを使用した丸薬で、長期にわたって飲み続けることで体臭そのものを変え、芳しい香りを演出するという代物です。香水とは違い、身体に塗るのではなく、身体の中から匂いを発する点が特徴です。
効果は抜群で、その香りは遠くの人にも認識できたと伝えられています。また、麝香を始めとする原料が媚薬としての効果もあり、日本では強精のために引用したとか。
体身香による芳香と独特の強い体臭。この2つが混じり合ったことで、絶妙にそそる香りを生み出しました。
絶妙な演出
楊貴妃は美しさに定評があったようですが、それだけでは皇帝の心を掴めはしなかったでしょう。なにしろ、後宮には三千人もの美女がいるのですから。
皇帝にしてみれば、わざわざ外に目を向けなくとも、後宮に行けば選り取り見取りです。そんな中、楊貴妃が皇帝の目に留まったのは、自分の魅力を最大限に発揮させる演出力でした。
皇帝が楊貴妃を見初めたのは華清宮という離宮でした。華清宮は有名な温泉地にあり、楊貴妃が温泉に入っているのを皇帝が目にします。豊満な肉体に瑞々しく白い肌、温泉の湯気で蒸された浴室には郁々たる香りが充満して、老年期に入った皇帝にはとても刺激的だったことでしょう。
さらに、離宮ということで、普段の政務や王宮の厳しいしきたりからも解放され、皇帝は羽目を外しやすい状況にありました。
温泉地という場所は、楊貴妃の魅力を最大限に引き出してくれる、最高にして最強の舞台でした。この出来事をきっかけに二人の関係はスタート。
数年後に楊貴妃は後宮へ上がり、正式に妃となります。
妃となってからも楊貴妃は努力を怠りません。外見はもちろんですが内面でも魅了していきます。他の妃の元へ行けば嫉妬して怒ってみせたり、喧嘩をすれば女の命である髪の毛を切って謝罪をしたり、宴席で皇帝が機嫌を損ねれば音楽や舞踊を披露し場を和ませたりしました。
天真爛漫なようで時に従順、気遣いもバッチリ。男心をくすぐるツボをしっかり抑えていたのです。
最後に
楊貴妃はかなり「男ウケする美人」だったようです。皇帝が骨抜きになるのも頷けます。
ただ「絶世の」と謳われる程の類稀な美貌かというと、そうでもなかったようです。
楊貴妃に関する逸話や伝説が多く残されており、後世ではそれを元にした文学作品が数多く作られ、日本の能や古典文学においても取りあげられています。
源氏物語では、桐壺更衣が受けた帝からの寵愛を楊貴妃に例えています。
実像が掴めるようで掴めない、そんな部分が人々の想像を駆り立て、楊貴妃を「絶世の」美女にしたのだと考えられます。
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