「……人々は何にも成給へ。為朝は今日の蔵人とよばれても何かせん。只もとの鎮西の八郎にて候はん」
※『保元物語』白河殿義朝夜討に寄せらるゝ事、より【意訳】そんじょそこいらの連中は何の位でも貰えばいいや。俺は蔵人なんてチンケな肩書はいらねぇ。かつて鎮西=九州で暴れ回り、実力で勝ち取った鎮西八郎の二つ名がありゃ十分さ。
かつて八人張り(8人がかりでないと弦がかけられない強さ)の強弓を引き、次々と敵を射殺して武勇を轟かせた源為朝(みなもとの ためとも)。
その二つ名は鎮西八郎(ちんぜいはちろう)。かつて鎮西狭しと暴れ回った源氏の八男坊は、保元の乱(保元元年・1156年)でも大活躍です。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には直接登場しないものの、源頼家(演:金子大地)の妻・つつじ(演:北香那。辻殿)の祖父として言及されていました。
武運拙く保元の乱では敗れ去り、伊豆大島に流罪となった為朝。しかし持ち前の武勇によって現地の人々を従え、半ば独立王国を築いてしまいます。
すると困ったのが狩野介茂光(かのうのすけ もちみつ)。大河ドラマでは工藤茂光として、米本学仁さんが熱演していましたね。
茂光は伊豆介(いずのすけ。伊豆国司の次官。苗字と合わせて狩野介)として伊豆諸島を支配しており、その年貢が入って来なくなってしまったのです。
(現代では東京都に属している伊豆諸島ですが、かつては伊豆国の管轄でした)
そこで為朝を討伐するべく軍勢を動員、果たして為朝はどのように迎え撃ったのでしょうか。
為朝、最後の一撃で大船を沈める
時は嘉応2年(1170年)の4月下旬、為朝討伐の院宣を得た茂光は、船20隻と兵500騎を率いて為朝の元へ攻め込みました。
茂光と共に乗り込んでいたメンバーは以下の通り。
- 伊東祐親(演:浅野和之)
- 北条時政(演:坂東彌十郎。あるいは父の北条時兼か)
- 宇佐美平太政光(うさみ へいたまさみつ)
- 宇佐美平次実政(へいじさねまさ)
- 加藤太光員(かとうた みつかず)
- 加藤次景廉(かとうじ かげかど)
- 最六郎(さい ろくろう)
- 仁田四郎忠常(演:高岸宏行)
- 天野藤内遠景(あまの とうないとおかげ)
などなど、伊豆国におけるオールスター勢ぞろいでした。迫りくる大船団を目の当たりにした為朝は、ひとり呟いたと言います。
「さてはさだめて大勢なるらん。たとひ一万騎なりとも、うち破ておちんと思はば、一まどは、鬼神がむかひたりとも射はらふべけれども、おほくの軍兵を損じ、人民をなやまさんも不便(不憫)なり。勅命をそむきて、つひには何の詮かあらん。去ぬる保元に勅勘をかうぶて、流罪の身となりしかども、此十餘年は當所の主となりて、心ばかりはたのしめり。それ已前(以前)も九國を管領しき。思出なきにあらず。筑紫にては菊池、原田の兵をはじめて、西國の者どもは、みなわが手がらの程はしりぬらん。都にては源平の軍兵、ことに武蔵、相模の郎等ども、わが弓勢をばしりぬらんものを。其外の者ども、甲冑をよろひ、弓箭を帯したる計にてこそあらんずれ。為朝にむかて弓ひかん者はおぼえぬものを。いま都よりの大将ならば、ゆがみ平氏などこそ下るらめ。一々に射ころして、海にはめむと思へども、つひにかなはぬ身に、無益の罪つくてなにかせん。今まで命ををしむも、自然世もたてなほらば、父の意趣もとげ、わが本望をも達せばやと思へばこそあれ。又そのかみ説法をききしに、欲知過去因、見其現在果、欲知未来果、見其現在因といへり。されば罪をつくらば、必悪道におつべし。しかれども、武士たる者殺業なくては叶はず。それに取ては、武の道非分の者をころさず、仍為朝合戦する事廿餘度、人の命をたつ事数をしらず。されども分の敵を討て、非分の者をうたず。鹿(かせぎ)をころさず鱗(うろくづ)をすなどらず、一心に地蔵菩薩を念じ奉る事廿餘年也。過去の業因によて、今かやうの悪身をうけ、根性の悪業によて、来世の苦果おもひしられたり。されば今此罪ことごとく懺悔しつ。ひとへに仏道をねがひて念仏を申なり。此うへは兵一人ものこるべからず、みな落ゆくべし。物具も皆竜神に奉れ」
※『保元物語』為朝鬼が島に渡る事并に最後の事、より
【意訳】あの船団はさぞ大軍であろう。たとえ一万人であろうと、撃破しようと思えば鬼神であろうが戦える。しかし今さら無駄に多くの命を奪い、人々を怖がらせるのも気の毒だ。天皇陛下が自分を討てと言うなら、それに逆らって何になると言うだろうか。
かつて保元の乱でお怒りを買って流罪となったが、ここ十年ばかりは伊豆初頭に君臨して楽しく暮らさせてもらった。その前だって九州狭しと暴れ回って我がものとした。我が武勇は誰もが知るところとなったのだ。
都では源氏も平氏も、特に武蔵・相模の者たちはその身をもって我が矢の威力を思い知ったことだろう。都からやってきた大将など皆射殺して海に沈めてやりたいところだが、これ以上の罪作りもどうかと思う。
今日まで命を永らえてきたのは、雌伏を乗り越えて亡き父(源為義)の無念を晴らし、我が志を遂げようと思ってのことだった。
そう言えば、仏法には欲知過去因、見其現在果、欲知未来果、見其現在因(大意:過去の原因を知りたくば、現在の結果を見よ。未来の結果を知りたくば、現在の原因を見よ)との教えがある。
罪を重ねれば必ず悪の道へ堕ちる。しかし敵を殺さねば武士は務まらない。それについては無辜の民を殺さず、これまで戦うこと二十数度、一度として武士でない者を殺しはしなかった(だから見逃して欲しい)。
この二十数年、狩猟も漁労も無駄な殺生はせず、一心に地蔵菩薩を信仰してきた。しかし過去の因業によってこんな人殺しの身となり、来世も苦しい人生が待っているだろう。
今こそ我が身の罪業を懺悔し、ひたすら念仏を唱えて仏の慈悲にすがるのみ。者ども、これより一切の抵抗をせず、逃げ出すがいい。武具などはことごとく竜神様にお供え(海中へ投棄)せよ」
……そう言ってすべての財産を形見として郎党らに分け与えた為朝は、息子である島冠者(しまのかじゃ)こと源為頼(ためより。9歳)を呼んで刺し殺しました。
残る5歳の男児と2歳の女児については母親が抱いて失せ(心中?逃亡?)、さぁ腹を切って死のうと決意を固めた為朝ですが……。
「さりながら、矢一(ひとつ)射てこそ腹をもきらめ」
※『保元物語』為朝鬼が島に渡る事并に最後の事、より【意訳】「……そうは言ってはみたが、最後に一矢くらいは射てやらんと腹も切れねぇ(気が済まねぇ)」
そう言って矢をつがえると、船団の中でも一番大きな300人乗りくらいの軍船に向けて射放ちました。
矢は大船の腹に命中して穴が開き、たちまち浸水・転覆してしまったとか。
「保元のいにしへは、矢ひとすぢにて二人の武者を射ころしき。嘉応のいまは、一矢におほくの兵(つはもの)をころし畢(をはんぬ)。南無阿弥陀仏」
※『保元物語』為朝鬼が島に渡る事并に最後の事、より【意訳】かつて保元の乱においては一撃の矢で二人の敵を射抜いたが、今回は矢の一撃で多くの兵どもを殺したものだ。
これで自分が弱くて、ましてや恐れをなして死ぬのではないと証明できた為朝は、心置きなく自刃して果てたのでした。
終わりに
かくして最期を遂げた為朝ですが、いっぽう寄せ手の者たちは為朝の武威を恐れてなかなか近づくことができません。
それと言うのも、腹を切った為朝が刀を手から離さず、まるで構えているように見えたからだとか。
日ごろは真っ先駆けて武勇を発揮する豪傑たちも、為朝との直接対決だけはどうしても恐ろしかったようです。
しかしあまりに動かないので(当然です)、加藤次景廉が為朝の絶命を確信。でも万が一生きてた場合に備えて背後に回り込み、薙刀で為朝の首級を打ち落としたのでした。
「鎮西八郎こと源為朝、この加藤次が討ち取ったり!」
ここに景廉はその日の一番手柄を勝ち取ったということです。
此為朝は十三にて筑紫へ下り、九國を三年にうちしたがへて、六年をさめて十八歳にて都へのぼり、保元の合戦に名をあらはし、廿九歳にて鬼が島へわたり、鬼神とて奴とし、一國の者おぢおそるといへども、勅勘の身なれば、つひに本意を遂げず、卅三にして自害して、名を一天にひろめけり。
※『保元物語』為朝鬼が島に渡る事并に最後の事、より【意訳】為朝は13歳で九州へ下り、3年間で征服。6年間支配してから18歳で上洛。保元の乱で暴れ回り(流罪は中略)、29歳で鬼が島へ渡り、鬼たちさえも従えた。誰もが恐れる豪傑であったが朝廷のお怒りを買っては志を果たせず、33歳で自害して天下に名を轟かせたのであった。
その後、為朝の首級は5月に京都へ運ばれ、都の人々は「いにしへより今にいたるまで、此為朝ほどの血気の勇者なし(『保元物語』より)」と讃えたのでした。
多くの人を殺したがゆえにその罪を懺悔し、それでも最後に武を顕わして自刃した為朝の最期。
死してなお勇士らを恐れさせたその姿は、武蔵坊弁慶(演:佳久創)の立ち往生を彷彿とさせますね。
時政「小四郎、五郎。父はかつて、あの鎮西八郎を退治したんじゃ」
「え~?」
「仕留めたのは加藤次殿と聞いておりますが?」
幼き日の北条義時(演:小栗旬)や北条時連(演:瀬戸康史)たちは、そんな武勇伝を聞いて育ったのかも知れません。
今後劇中にそうした言及はないでしょうが、かつて時政や忠常たちにそのような過去があったことを知っておくと、大河ドラマがより味わい深く楽しめるかと思います。
※参考文献:
- 岸谷誠一 校訂『保元物語』岩波文庫、2012年8月
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