明治時代の詩人・石川啄木(いしかわたくぼく)は
「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」
「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」
などの作が有名な歌人、詩人である。
まさに貧しいながらも心清く、懸命に生きる清貧というイメージがある石川啄木だが、実際には彼はどのような人物だったのだろうか。
文学にどっぷりはまり、中学を自主退学。
啄木は1886年、現在の岩手県盛岡市日戸に長男として生まれた。父は寺の住職で、なかなか厳しい家庭だったという。
1年早い5歳で小学校に入学しその後、主席で卒業する。神童と呼ばれ12歳で盛岡尋常中学校に入学し、そこで後の言語学者・金田一京介と親友になり、また後に妻となる節子とも出会う。
京介から文学の面白さを教わり、文芸雑誌「明星」を愛読し、与謝野晶子のファンとなり文学家になる夢を抱き始める。
16歳だった啄木は短歌を発表し始めるが、反面、学業が疎かになり、テスト中の2度のカンニングがばれ、自主退学する。
その後、プロの文学家を目指し上京するが仕事は無く、結核を患った事で半年で岩手へ帰る。
17歳で、雑誌で短歌を発表し天才詩人としてデビューする。
結婚、単身赴任、自堕落生活
初恋の相手・節子と19歳の時に結婚するが、なんと自身の式をドタキャンする。
当時啄木は、文学で生計を立てるために上京していたが結婚のために帰郷することとなり、汽車で実家の盛岡へ向かっていた。しかしなぜか途中の仙台で降りて結婚式当日になっても現れなかったのである。
実はその時に父が失業しており「自分が家計を背負うのは嫌だ」という理由で逃げたのである。
仙台で降りた啄木は、旅館でゴロゴロしたりしていたがお金が無くなり、知人に宿代を借りるために「母が危篤で、お金が必要だ」と嘘をつくがすぐバレて、結局宿代が払えず踏み倒してしまった。
結婚式は新郎不在で、新婦と親族だけで挙げるという前代未聞な形となった。
そんな啄木でも大黒柱になったため「文学だけでは生活出来ない」と妻を盛岡に残して北海道へ単身赴任する。しかし仕事は臨時教諭や新聞社を転々として、妻への仕送りも無かったのである。
22歳の時に「小説家として成功したい」と、友人で歌人の宮崎郁雨に資金援助してもらい、再び上京する。
啄木は親友の金田一京介を頼りながら執筆活動をするが、全く評価されず、生活のために朝日新聞社の校正係として働くが、毎晩遊び飲み歩き借金も膨れていった。一方で節子は、自分の持ち物を売って生活苦を凌いでいた。
その後、節子達家族も上京し、啄木と同居し始めるが、変わらずの貧乏生活と啄木の所業に耐えかねて、ついに節子は家出する。しかも家出した節子を気にかけ、呼び戻したのは啄木では無く、友人だった。
さすがの啄木も、妻にかけてきた苦労や世の中に認められない現実を受け止めて、作風も今までの理想主義から一変させ、1910年に「一握の砂」を出版する。
プロとして活動し始めるも、1912年、啄木は肺結核を患い、26歳で亡くなった。
浮気を記した「ローマ字日記」
啄木は家族と離れて生活していた日々の事を、ローマ字で記していた。
なぜローマ字なのかというと、自身の乱れに乱れた生活内容を妻の節子に知られないようにするためだった。その内容は、給与の前借り、借金して吉原へ通った事、会社のさぼり方、はたまたお世話になった人達の悪口まで書いてあった。
啄木は親友の金田一京介をはじめ、宮崎郁雨など総勢約60人から借金し、総額は1400万以上とされている。しかもそれらを全額踏み倒し、女と酒に使ったのである。
ローマ字日記の一部内容
「いくらかの金のある時、予は何のためろうことなく、かの、みだらな声に満ちた、狭いきたない町に行った。予は去年の秋から今までに、およそ十三、四回も行った。そして十人ばかりの淫売婦を買った。ミツ、マサ、キヨ、ミネ、ツユ、ハナ、アキ、、名を忘れたのもある。予の求めたのは暖かい、柔らかい、真っ白な身体だ。身体も心もとろけるような楽しみだ。」
他にも別の日の内容には「節子に不満足なのでは無く、人の欲望が単一でないだけだ」と自身の浮気を、正当化するようなものもある。
啄木は亡くなる前に、この日記を燃やして処分するようにと節子に伝えたが、節子は啄木への愛着から捨てられず、親友の金田一京介に託した。その結果、この内容が世に知られる事となる。因みに節子は教養のあるお嬢様だったため、この日記も読めていたと言われている。
嘘つきの常習犯
啄木は親友の金田一京介と飲みに行く時に「自分が奢るから」と誘うのだが、いざお会計となると1度も払った事は無かったという。また作家の森田草平も同じく、その被害にあっており、やはりお会計の時にはぐらかされ、その後さらに「次こそは奢るから」と2件目に連れていかれ、結局また払う羽目になっている。
また幼少期にまんじゅうが食べたいと母に作らせ、いざ出来ると「出来るのが遅いから食べる気が失せた」と、母にまんじゅうを投げつけたという。生まれつき自己中心的で思いやりにかけた人間性だったのかもしれない。
そんな啄木が詠んだ有名な句に、冒頭でも紹介した「たはむれに母を背負いて〜」があるが、啄木の妹は「兄が母を背負うなどあり得ません。嘘です。」と否定している。
まさにどうしようもない人間であったが、妻や友人たちは不思議と彼を気にかけ支え続けた。
自身の恥ずかしく弱い部分も曝け出しながらも文学を貫いた啄木には、何か放っておけない魅力があったのかもしれない。
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