ベルリンの壁崩壊
1989年11月9日。建設から28年に渡り東西分断の象徴となっていたベルリンの壁がその日、突如として崩壊した。
あの日、なぜベルリンの壁は突如として崩壊したのか? それはなんと『誤報』であった。
ベルリンの壁崩壊の原因は勘違いだった
実は、ベルリンの壁が崩壊した直接の原因は一人の人物による勘違いだったことはご存知だろうか?
それが当時の報道官、ギュンター・シャボフスキーによる、かの有名な『誤報』である。
シャボフスキーは、各国の取材陣を前にして世界中に向けてこう言い放ったのだ。
「東ドイツ国民はベルリンの壁を含むすべての国境通過点からの出国が認められる」
そして「それはいつから発効されるのか」という記者の問いかけに対し「私の認識が正しければ遅滞なく、直ちにです」と応えてしまった。
事実上のベルリンの壁崩壊宣言である。
しかし、これはあくまでギュンターの勘違いであり、当然のことながら全く政府の意図していないところであった。
報道を見た東ベルリン市民はたちまち壁に押しかけ、国境ゲートを開放するように警備隊に詰め寄った。もちろんそんな政令は下っておらず、むやみに国境ゲートを開放するわけにもいかない。
しかし留まるところなく増えていく人の数と「開けろ」という市民の声に、とうとう限界がきてしまった。
二万人を超える市民の数はこのままでは暴動を起こしかねない、流血沙汰に繋がる可能性もある。これ以上は持ちこたえられないと判断した警備兵により検問所はついに開かれた。
1989年11月9日、午後10時45分のことである。
本来の趣旨
こうしてギュンターの勘違いにより起こった崩壊であったが、政令の本来の趣旨は「東ドイツ国民に対する旅行制限緩和」であった。
一党独裁によって募る国民の不安を和らげ、人口流出を食い止めるための規制緩和であり、あの日、壁は崩壊するはずではなかったのである。
東ドイツは当時「社会主義の優等生」と称されてはいたが、その実態は「優等生」の言葉からはかなりかけ離れたものだった。
度重なる官僚の汚職事件、秘密警察シュタージ―による監視社会制度、ドイツ社会主義統一党による一党独裁体制の元で国民は不満を募らし、周辺の東欧共産国が民主化へと進む中でその不満は徐々に東ドイツ国民の心も民主化へと走らせた。
そして近隣の東欧共産国が民主化へと走っていく中で、東ドイツの人口流出は著しく増大していく。当時の党書記官であったエーリッヒ・ホーネッカーは、増大する人口流出を食い止めるべく、全ての国境を封鎖していた。
そしてホーネッカー失脚後、規制を厳しくしすぎてしまった国境封鎖を元に戻そうと打ち出されたのが、この時の「旅行制限緩和」だったのである。
しかし、それは翌日の11月10日より発効されるものであり、ギュンターの言う通り「直ちに今から」ではなかった。
実は、旅行制限緩和に関する政令を発表したギュンターは中途半端にしか内容を聞いておらず、その全容を正しく理解していなかった。
この政令に関する承認を受けた中央委員会に出席していながらも、彼は事務方との打ち合わせのため何度も中央委員会を中座して退出を繰り返していたために、詳細を把握できていなかった。
そのため記者会見の前に手渡されたプレリリース用の文書だけで勘違いをしてしまい、誤報を発表してしまったのである。
最後に
ギュンターの『誤報』は壁崩壊の直接的な引き金になったとは言え、あくまでそれは一つのきっかけである。
壁を崩壊せしめたのは市民であり、まさしくベルリンの壁崩壊は一つの市民革命であったとも言えるだろう。
前述したように、東ドイツ国内では民主化の動きが高まっていた。ゴ
ルバチョフのペレストロイカによって民主化へと動き出した東欧共産国、反体制派による月曜デモ、ハンガリーとオーストリアの国境付近で起きたピクニック事件。ベルリンの壁崩壊前夜、東西陣営の対立は確実に雪解けへと向かっていた。
しかしそれでも東西冷戦の象徴であった壁は依然としてあり続けるだろうと当時の人々は当然のように思っていた。
もしもあの時ギュンターが勘違いをしていなければ、引き金を引かなければ、壁崩壊の引き金は一体いつ引かれていたのだろうか。
そんなことを考えずにはいられない。
この記事へのコメントはありません。