前編では、長篠の戦いにおける織田軍と武田軍の実像について解説した。
今回は、長篠の戦いのシミュレーション、長篠の戦いが起こった理由について解説する。
長篠の戦いのシミュレーション
2021年、NHK 歴史探偵「長篠の戦い」にてartisoc Cloudを用いたシミュレーションが紹介された。日本大学生産工学部数理情報工学科の古市先生と理工学部精密機械工学科の粟飯原先生が出演し、長篠の戦いを再現している。
武田軍の鉄砲の数は1,000丁、織田軍の鉄砲の数は3,000丁。
鉄砲を撃つ兵が持っていた弾丸の数は、武田軍は通常1人100発程度だったが、直前の戦いでかなりの数の弾丸を使っており、1人50発程度と推測される。
対する織田軍の兵は1人300発程度であったと推測される。
この結果、武田軍5万発に対し織田軍90万発となり、かなりの差がある。
織田軍は馬防柵の内側から前編の記事で解説した「先着順自由連射」を行い、武田軍は3本の街道(道)を通って射撃したと考えられる。
最初に武田軍が3本の街道を通って進軍し、最激戦地とされる南の戦場に鉄砲隊が到着して左右に広がって射撃を開始した。
織田軍の「先着順自由連射」の前に武田軍の部隊の一つがほぼ全滅するも、武田軍は更に攻撃を継続し、織田軍の攻撃に耐えながら織田・徳川連合軍の鉄砲部隊の一つを壊滅させる。
武田軍では弾切れする部隊が続出し、鉄砲隊が壊滅しそうになりかけたその時に、槍隊と騎馬隊が馬防柵に捨て身の突進攻撃を行った。
特に徳川軍を集中的に攻撃し、シミュレーションでは徳川軍は相当な被害が出ている。
従来は、武田軍が一方的に織田・徳川連合軍の三段撃ちによって甚大な被害を受け、柵から打って出た織田・徳川連合軍に殲滅されたと言われてきた。
しかし、武田軍は織田・徳川連合軍の一角を壊滅状態に追い込み、そこから槍隊と騎馬隊が突入し、通説よりも善戦している結果となった。
長篠の戦いの本当の理由
前編では、武田軍の鉄砲の弾丸は銅銭を溶かしたものが数多く使用されたことを述べたが、実は鉛の弾丸も発見されている。
実は武田領から少しだが鉛も産出され、なんらかの流通ルートで手に入れていたのである。
現在の愛知県新庄市睦平という場所に鉛鉱山があり、そこから確保することが出来たようである。
その場所は長篠城からわずか3kmほどであった。
戦国時代、多くの戦国大名たちは銀山を巡って争いをしている。
実は、銀を製錬して取り出す際にも鉛が必要だったのである。
鉛は、鉄砲の弾丸に加えて銀の精錬にも必要であり、戦国大名たちが争い合う重要な鉱物資源だった。
武田軍が長篠城を攻撃した理由はまさに「鉛」の確保という要因が大きいと考えられる。
長篠の戦いは、弾丸の原料・銀の精錬としての鉛を巡った争いでもあったのだ。
海がなく南蛮貿易が出来なかった武田軍からすれば、この長篠付近は喉から手が出るほど欲しかった場所だったのである。
織田・徳川連合軍の秘策
織田・徳川連合軍の一角を崩し、槍隊と騎馬隊が突入し善戦していた武田軍に、予想もしない織田・徳川連合軍の秘策が待っていた。
武田勝頼の手紙には、この時に武田軍が目の当たりにしたものが記されている。
「信長の陣に押し寄せたところ、敵は城を構えて籠り、味方は不利な戦を強いられた」
信長の陣にあった城とは何か?それは信長が陣を張った場所であった。
合戦が行われた設楽原は、小川や沢に沿って丘陵地が南北に幾つも連なる場所である。
信長が陣を張った場所からは武田軍の陣の深遠まで見渡せなかったが、逆に信長はこの点を利用し、信長軍3万の軍勢を武田軍から見えないように途切れ途切れに布陣させた。
そして小川の連吾川を堀に見立てて防護柵を作り、連吾川を挟む台地の両方の斜面を削って人工的な急斜面にした。
更に三重の土塁を設け、そこに馬防柵を設け鉄砲隊を配備するという、当時の日本には無かった異例の野戦築城という秘策を用いたのである。
武田軍から織田軍方向に進軍していくと、堀、急斜面、三重の土塁と三重の馬防柵といった形となる。
しかも柵は、木の枝を全部切り取って先端を削って尖らせる「逆茂木」で造られていた。
これを馬が怖がり、騎馬隊が進軍出来なくなっていたのだ。
信長は宣教師から野戦築城技術を学んでいた。
それを初めて見た武田軍からすると、まさに防御を固めた城のように見えたはずである。
つまり、武田軍が突破した柵は第一の柵に過ぎず、第二・第三の堅固な柵が待ち構えていたのである。
もし、それを突破した強者がいたとしても、ごく少数な上にかなり疲弊したはずである。
おわりに
長篠の戦いは、鉄砲時代の先駆戦であり、戦い方の歴史を変えた戦いとされてきた。
しかし検証した結果、通説とされた武田軍の先頭は騎馬軍団ではなく鉄砲隊であった。
また織田・徳川軍の鉄砲隊は三段撃ちではなく「先着順自由連射攻撃」だった。
武田軍の鉄砲隊の弾丸の多くは鉛ではなく銅銭を溶かしたものであり、弾丸の数は武田軍5万発に対し織田・徳川軍は90万発であった。
信長が布陣した場所は、土塁と馬防柵など三重構造になっており、海外の野戦築城技術が用いられていた。
現代科学で様々な角度からで検証しても、武田軍は相当不利な状況であり、勝ち目がなかったことがより明白となったのである。
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