孔明死後の蜀を支えた名臣
三国志演義は、実質的なクライマックスである五丈原の戦いが終わると、姜維の北伐から蜀の滅亡まで駆け足で描かれて結末を迎える。
創作でいえば『横山三国志(全60巻)』は最後の60巻で諸葛孔明死後の残りの28年を描き、ドラマの『三国演義』では全84話中、孔明死後の演義を7話で纏めている。
このように、三国志は最初の50年と最後の50年の密度の濃さに大きな差があり、最後の50年の人物は活躍しても影が薄くなりがちである。
蜀の後期を支えた人物として姜維は有名だが、その姜維よりも強い権限を持った人物が同時期の蜀にいた。
今回は、孔明死後の蜀を支えた蒋琬(しょうえん)を紹介する。
劉備の前で大失態
荊州で生まれた蒋琬は、20歳の時に当時の荊州の統治者だった劉備に仕えると、劉備の益州侵攻にも付き従い、劉備が蜀を得ると広都県の長に任命される。
だが、劉備が視察に訪れた時に仕事をせず、泥酔していたため、激怒した劉備から処罰されそうになる(詳しい事は書かれていないため確かな情報ではないが、一説によると文字通りクビを斬られる寸前だったらしい)が、蒋琬の才能を高く評価していた孔明の「蒋琬は国家を背負う大器です」という言葉を聞いて、免官のみの処分で済まされた。
蒋琬の活躍と名前が有名になるのは劉備の死後で、北伐の頃から正史でも演義でも彼の名を見掛けるようになる。
蜀が魏と激戦を繰り広げる中、蒋琬は成都に残って政務の代行及び兵糧及び兵士の輸送といった後方支援に回っていた。
蒋琬は元々文官なので「安全圏からサポートしているだけ」という批判的な声は存在しなかったが、兵糧は戦の要であり、楚漢戦争で勝利した漢の劉邦は最大の功労者として後方から兵糧と兵士を送り続けた蕭何を選んだ事が、後方支援の重要性を証明している。
それだけ重要な任務を任せたという事は孔明の蒋琬に対する期待と信頼の高さを意味しており、孔明も死の直前に自身の後継者として蒋琬を指名している。
蜀のトップへ
国の大黒柱であった孔明の死は蜀にとって国を揺るがしかねない大事件であったが、後継者として蜀を任された蒋琬は悲しむ様子は一切見せず、いつもと変わらない態度で、普段通りに振る舞っていた。
正史の記述を見ても、蒋琬は政治でも軍事でも目立った活躍はほぼ見せず、いわゆる自分の姿で周囲を引っ張るタイプのリーダーだった。
孔明の死に蜀は悲しみと同様に包まれていたが、普段と変わらない蒋琬の姿を見た人々は落ち着きを取り戻し、蒋琬の「最初の仕事」というべき国の安定化は大成功に終わった。
また、孔明が担っていた丞相の職は死後置かれず、蒋琬は録尚書事(ろくしょうしょじ)という実質的な政治のトップに着いていた。
更に蒋琬は軍のトップである大将軍、地方のトップである益州刺史も兼務し、蜀に於いて最も強い権限を持っていた。(他に人材はいなかったのかという疑問もあるが、それだけ蒋琬が軍事面でも優秀だったと解釈する)
幻の北伐計画
政治家としては文句なしに超一流の蒋琬も軍事面では目立った実績はないのだが、実は幻に終わった北伐計画があった。
244年、蒋琬は「孔明の北伐がいずれも失敗に終わったのは、移動も輸送も困難な蜀の山道を選んだ事が原因である」と分析し、山ではなく川から攻める計画を考えていた。(このプランを意識した訳ではないが、筆者も『三國志14』では成都を拠点にスタートして東に攻めながら天下統一を達成している)
但し、自分で操作出来る上にNPCの強さも決められる(しかも空白地の多い初期シナリオだから領地を広げやすい)ゲームと違って、三国時代の蜀はハードモード(超級)でしかない。
ゲームのように簡単に落とせて撤退する事を考える必要もない、いわばイージーモードで挑むなら何の問題もないが、現実の戦争は将兵の命を預かっている。
全滅したら「壊滅」の2文字だけで武将はしれっと帰還するゲームでは実感しづらいが、蜀は不利な状況で攻める立場であり、被害を最小限にするため撤退の事も考えながら戦う必要があった。
そして、蒋琬のルートでは撤退が困難であり、蜀の中でも反対意見が多かった。
頓挫した計画
結局、蒋琬の持病(病名は不明)もあり、北伐は行われずに終わった。
北伐頓挫から2年後の246年、蒋琬は病気の悪化によってこの世を去る。
大将軍と録尚書事の職は既に費禕(ひい)に譲っていた事と、費禕も優秀な人物であったため大きな混乱はなかったが、費禕も253年に暗殺されてしまい、最後の10年は姜維の暴走を許す事になる。
実質的な蜀のトップを失った影響は当然小さくないが、良くも悪くも周囲に流されやすい劉禅にとって「蒋琬に任せれば問題ない」という環境でなくなってしまった事が何よりも痛かった。
目立った実績がないため過小評価されがちだが、蜀のトップとして活躍した12年間、蒋琬は間違いなく蜀の心臓だった。
蒋琬のエピソード
「目立った実績がない、過小評価」という言葉で締めるのも蒋琬に失礼なので、最後に蒋琬の人柄を表すエピソードを紹介する。
楊戯(ようぎ)と蒋琬が議論をすると、楊戯は言葉に詰まって返事が出来ない事があった。
陳寿からは「適当で手を抜く性格」と書かれるなど後世の評価も良くない楊戯だが、身内からも嫌われていたのか、楊戯を陥れようと「蒋琬殿と議論しているのに返事をしない楊戯は無礼である」と言う者が現れた。
蒋琬は国のトップであるため、この言葉を大義名分としてその気になれば楊戯を失脚させる事も出来たが、蒋琬は「同じ顔の人がいないように、人の考え方もそれぞれ違う。楊戯が私の言葉に従えば自分の考えを曲げる事になり、異を唱えれば公衆の面前で私を批判した事になる。だから黙っていただけで、それは彼のいいところだ」と答えた。
また、楊敏という者が「蒋琬は丞相(孔明)に及ばない」と述べた時も、蒋琬は「私が丞相に及ばないのは事実だ」と涼しい態度だった。
その後、楊敏は罪を犯して逮捕されるが、蒋琬は私心なく公平に楊敏を裁いたという。
これらのエピソードだけで蒋琬を聖人君子と評する事は出来ないが、現代に伝わるエピソードはいずれも尊敬に値するものだった。
関連記事: 他の三国志の記事一覧
初めてこのエピソード知りました!
有難う御座います!!