時は戦国・天正11年(1583年)。昨年本能寺の変に横死した織田信長(おだ のぶなが)の後継者をめぐり羽柴秀吉(はしば ひでよし)と柴田勝家(しばた かついえ)が争った賤ケ岳の合戦。
果たして秀吉が勝利を収め、特に武功を立てた七名は「賤ヶ岳七本槍」と謳われました。
彼らはそれぞれ恩賞を与えられ、晴れて領主となったのですが、今度は所領を治める苦労がついて回ることに。
ただひたすら槍を奮い、敵を倒すだけの武士が立身出世を果たすは、次第に難しい時代に入っていたのです。
今回はそんな、所領経営に苦労した「賤ヶ岳七本槍」の一人・脇坂安治(わきざか やすはる。甚内-じんない)を紹介。いったい何があったのでしょうか。
武功によって伊賀国を預かるが……
賤ヶ岳の武功により、三千石を与えられた安治。併せて「伊賀国(三重県北西部)を預ける」とのこと。やったぁ!これでわしも一国の主……と思ったら大間違いでした。
「『やる』とは言うておらぬ。そちに伊賀を預けたのは他でもない、材木の伐り出しじゃ」
伊賀国はその名の如く険しい山々に囲まれ、そのため良質な材木が多く採れます。それを伐採して京都に運べと言うのですが、決して簡単な話ではありません。
ただ伐り倒すだけではなく、それを京都まで運搬するためのルート確保、人員や資材の調達などなど……煩雑な事務作業が多岐にわたります。
さぁ大変なことになりました。いくら「殿の命令であるぞ、ただちに材木を伐って運べ!」と威張り散らしたところで、具体的な段取りをつけてやらねば事は進まないのです。
「御代官(ここでは安治)様。林道を開削して欲しいのですが、あそこの担当は誰ですか」
「御代官様。担当者が不満を言ってやろうとしません。どうか説得して下さい」
「御代官様。倒木で多数怪我人が出ました。納期に遅れそうなので応援を手配して下さい」
「御代官様。人足同士が喧嘩を始めました。何とか仲裁して下さい」
「御代官様。斧や鋸が壊れて作業が進みません。代わりを用意していただけませんか」
「御代官様。人夫に支給する食料が足りません。どこから調達しましょうか」
「御代官様。材木の輸送中、賊に襲われて立ち往生しているようです。何とかして下さい」
※これらは想定し得る限りの事例を並べたものであり、実際とは異なる可能性があります。
「御代官様」「御代官様」「御代官様」……次から次へと舞い込む報告・連絡・相談をとりさばくのに一苦労。もちろんこれらの処理記録も残さねばならず、あまり人使いの上手くなかったであろう安治は、部下への手分けもままならなかったことでしょう。
「うるさーい!」
完全にキャパシティを超えてしまった安治は、お役目を免じてもらえるよう秀吉に泣きつきました。
「黙って木を伐れ」秀吉の厳命とフォロー
「それがしは槍働きの方が向いております。どうかお役目の交代を……」
しかし秀吉はこれを却下。あくまで任務続行を厳命します。
「……アホか。そちの向き不向きなど百も承知じゃ。その上で此度の任務を命じたのは、わしに考えあってのこと。黙って仕遂げよ!」
いくら戦場で武勇を奮おうと、個人の力などタカが知れたもの。これからはいかに集団を統率するか、上手く人を使えるかこそ、将に求められる資質なのです。それを養うために命じたのですから、投げ出せば今後の政治生命は間違いなく断たれてしまうでしょう。
「わしが『木を伐れ』と言ったら黙って木を伐ればよいのじゃ。それ以外のことは求めておらぬ……ナメた態度をとっておると、タダではすまさぬぞ!」
「ははあ……!」
「とは申せ、いきなりすべて一人で仕切るのは難儀であろう。今後は補佐をつけるゆえ、心して励め」
「……有難き仕合せにございまする」
という訳で、それからは一週間とおかず進捗確認や助言などを行ったようです。こういう辺りに秀吉らしいフォローが見られます。
「たわけ、こういう場合はこうするんじゃ。今後のために、よう覚えておくんじゃぞ……こら、そういう場合の処理はじゃな……」
「ひえぇ……」
秀吉の愛ある?スパルタ教育のお陰か、安治の材木伐採任務は徐々に進行。その出来高払いか、石高も一万また一万石と増えていったのでした(少し前に武功も立てているため、そっちの恩賞とも見られます)。
終わりに
天正11年(1583年) 賤ヶ岳の武功により、三千石を拝領。
天正12年(1584年) 伊賀上野城を攻略(小牧・長久手の合戦)。
天正13年(1585年)
5月、一万石に加増(摂津国能勢郡・大阪府能勢町)。
8月、二万石に加増(大和国高市郡・奈良県高取町)。
10月、三万石に加増(淡路国津名郡・兵庫県洲本市)。
一年間でちょこちょこ加増されていますが、この時期に材木伐り出し任務が課せられたと言われます。
ちなみに、今回の件で「ダメだこりゃ」と思われてしまったのか、安治の所領は三万石でストップ。以降加増されることはありませんでした。
「……どうせ三万石も満足に治めきれんじゃろうて」
その後も九州征伐や小田原征伐、朝鮮出兵などに武功を立てたもの、もはや槍働きだけで評価される時代は過ぎ去りました。
戦国乱世も終焉が近づき、文武両道を兼ね備えねば生き残れない。やがて秀吉亡き後、関ヶ原の合戦で徳川家康(とくがわ いえやす)率いる東軍に寝返ったのは、豊臣(羽柴)政権下における前途を悲観したこともあったのでしょうか。
最終的には伊予大洲藩の五万三千五百石を治めた安治ですが、その名の通り安々と治められたか、とても気になるところです。
※参考文献:
- 本郷和人『徳川家康という人』河出新書、2022年10月
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