どうする家康

【秀吉死後の家康の身勝手な行動】 家康の天下取りへ向けての2年間 〜前編

徳川家康は、全国の大名が東軍と西軍に分かれて争った「関ヶ原の戦い」に勝利し、江戸に幕府を開いた。

こうして約100年も続いた戦国時代は終焉し、260年以上にも渡る泰平の世が始まったのである。

天下人・豊臣秀吉が病死してから天下分け目の「関ヶ原の戦い」に至る2年間に、家康は一体どのような行動を取ったのか?

今回は、家康による天下取りへ向けての「2年間」について、前編と後編にわたって掘り下げていきたい。

内部分裂した豊臣政権

家康の天下取りへ向けての「2年間」とは

画像 : (月岡芳年『月百姿』)高野山の豊臣秀次

文禄4年(1595年)の秀次事件(豊臣秀次が謀反疑惑で切腹となった)がもたらした政治危機を克服するために、六人の有力大名、徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・小早川隆景が豊臣政権の「大老」とみなされた。

慶長3年(1598年)病に倒れた秀吉は、まだ幼い6歳の秀頼が成人となるまでの政権運営を、病没した小早川隆景を除く「五大老」と、石田三成・浅野長政・前田玄以・増田長盛・長束正家の「五奉行」による合議制として制度化させた。

同年8月18日、ついに秀吉が死去する。

五大老・五奉行が、予定通り一致団結して秀頼をサポートしていけば何も問題はなかったが、秀吉に代わる次代のリーダーの座を巡って抗争が始まることとなる。

次代のリーダーの筆頭候補と目されたのは、徳川家康であった。

家康は、関東地方の多くを治め石高は全国で最大の250万石、その実力は群を抜いており秀吉からも信任を得ていたことから、秀吉死後は京都・伏見城に留まって政務を執った。
家康自身も次代のリーダーを自負していたのか、着々と足場固めを行った。

No.2となったのは加賀100万石の大名・前田利家で、石高こそ家康には及ばないが、生前の秀吉とは苦楽を共にした旧知の仲で、豊臣家臣団でも人望はトップクラスであった。

秀吉の死後は譜代の家臣として豊臣家をまとめて行こうと考え、秀頼と共に大坂城にて京都と大坂の二頭体制で動き始めた。

家康の身勝手な行動

家康の天下取りへ向けての「2年間」とは

画像 : 徳川家康肖像画 public domain

五大老の筆頭と目された家康は、生前秀吉が禁止した「合議による合意を得ない大名家同士の婚姻」を、天下取りの足固めとして勝手に行った。

〇家康の六男・松平忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫
〇松平康元(家康の甥)の娘と福島正之(福島正則の養子)
〇蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の世子)と小笠原秀政の娘・万姫(家康の外孫養女)
〇加藤清正と水野忠重(家康の叔父)の娘・かな姫
〇黒田長政と保科正直の娘・栄姫(家康の姪で養女)

この頃、家康は細川忠興・島津義弘・増田長盛らの屋敷に頻繁に訪問している。

これらの行動が利家や三成らより「専横」との反感を買い、三中老(堀尾吉春・中村一氏・生駒親正)が問罪使として派遣されたが、家康は三中老を恫喝して追い返したという。

これに利家が怒ったことで家康弾劾の動きが起こり、四大老・五奉行からの問責使が家康に送られる一方で、家康も国許から兵を呼び寄せ、両者は一触即発という状態になりかける。

この時、家康邸に参集した大名は、黒田官兵衛・黒田長政・福島正則・池田輝政・蜂須賀家政・藤堂高虎・山内一豊・有馬則頼・有馬豊氏・京極高次・京極高知・脇坂安治・伊達政宗・新庄直頼・新庄直忠・大谷吉継・森忠政・堀秀次・金森長近・最上義光・田中吉政らなどである。

一方、利家邸に参集した大名は、石田三成・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・加藤清正・織田秀信・織田秀雄・増田長盛・細川忠興・加藤嘉明・浅野長政・浅野幸長・長束正家・前田玄以・佐竹義宣・小西行長・長宗我部盛親・立花宗茂・鍋島直茂・有馬晴信・松浦鎮信らなどだった。

慶長4年(1599年)2月2日、家康と利家は誓書を交わして相互に邸宅を訪問し、さらに家康は向島に退去することでこの一件は和解となった。

もし、ここで両者がぶつかっていれば歴史は変わっていたかもしれない。

七将襲撃事件

豊臣恩顧の大名の中でも仲間割れが始まっていた。

家康の天下取りへ向けての「2年間」とは

画像 : 加藤清正 public domain

加藤清正福島正則ら「武断派」と、石田三成小西行長ら「文治派」の対立が激化していたのである。

特に武断派は、朝鮮出兵(慶長の役)での蔚山城の戦いの戦況報告を巡る確執で、三成に対して強い恨みを抱いていた。

同年3月3日、ストッパーとなっていた利家が亡くなると、その直後に武断派の七将(加藤清正・福島正則・池田輝政・細川忠興・浅野幸長・黒田長政・加藤嘉明)が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件が起きる。

事前に襲撃の知らせを受けていた三成は、翌3月4日に伏見城内の自分の屋敷に逃げ込み、その仲裁は家康が行った。

しかし三成の奉行職の解任と居城・佐和山城への蟄居が決まり、これ以降は家康が豊臣政権の筆頭家老として事実上の政権運営を掌握することとなる。

秀吉の死後1年も経たない内に、前田利家が亡くなり、石田三成が失脚したことで、一気に家康の天下取りが現実味を帯びてきたのである。

後編では、事実上のトップとなった家康への「暗殺計画」について解説する。
【家康暗殺計画】 家康の天下取りへ向けての2年間 〜後編

 

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コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2023年 4月 27日 9:51pm

    今までの大河ドラマ「どうする家康」ではなんか頼りない武将として描かれているが、TVで信長に「このくそたわけ」と言った位特に元亀元年は頑張った。
    信玄にコテンパンにやられたのに生き残り、最終的に天下人・神の君となった家康はドラマ通り決断が遅い武将だったが、本多正信を軍師にしてから急激に強くなった。
    一番の天下人は?面白いですね!

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