晋の初代皇帝
諸葛亮が提示した「天下三分の計」は実現し、中華は魏、呉、蜀の三国による果てしない戦いが繰り広げられます。
そんな中、魏の司馬懿(しばい)は反対勢力との内部抗争を制し魏の全権を掌握すると、司馬一族による国家運営を開始し始めます。
今回紹介する司馬炎(しばえん)は司馬懿の孫であり、黄巾の乱から始まった三国の動乱を遂に終わらせた人物です。
晋の初代皇帝として中華統一の悲願を成し遂げるも、統一後は政治に感心を失い、再び中華の地に大動乱を招いてしまった晋の初代皇帝とは如何なる人物だったのでしょうか?
司馬一族の貴公子
236年、司馬炎は司馬懿の次男である司馬昭(しばしょう)と王元姫(おうげんき)との間に長男として誕生。
権力者である祖父の司馬懿、父親の司馬昭の影響もあり、出身地の河内群では「比較する者がいない」と言われるほどの地位の高さでした。
必然的に司馬懿や、叔父である司馬師(しばし)の役職を引き継いでおり、正に将来は約束されているも同然の立場でした。
司馬昭の後を継ぐ
260年、魏の4代皇帝である曹髦(そうぼう)は専横を続ける司馬昭を討つべく自ら剣を取って立ち上がりますが、敢え無く司馬昭により殺害されてしまいます。
制御し難い曹髦を排除した司馬昭は新たに曹奐(そうかん)を新帝として擁立すると、263年に蜀討伐の大軍を出陣させます。この間、司馬昭は晋公へと任命され、着々と帝位簒奪の下準備を行います。
さらに、その年の12月に蜀を滅ぼすと翌年の春には晋王へと位を進めます。この時、司馬昭は既に次の後継者は誰にすべきか考えていました。
始め司馬昭は兄である司馬師に養子として差し出した庶子の司馬攸(しばゆう)を後継者とすべきと考えていました。
実際、司馬炎もこのとき、自分は後継者になれないのではないかと不安に感じており、
「人には(高貴となる)相というものがあるのだろうか?」
と周りに相談していたと言います。
しかし、司馬家の古くからの側近である何曾(かそう)は嫡子である司馬炎を差し置くのは良くないと反対したため、結局後継者は司馬炎に決まりました。
皇帝即位と晋建国
265年、司馬炎が正式に後継者と定まると、その年の8月、司馬昭はこの世を去ります。司馬炎は晋王と相国の位をそのまま司馬昭より引き継ぎます。
さらに12月、もはや魏の命運は尽きたと見た賈充(かじゅう)を中心とする腹心は司馬炎に帝位に就くことを勧め、魏帝である曹奐に禅譲を迫ります。
お飾りであった曹奐に拒否権はなく、ここに魏は滅び、新たに「晋」が建国されました。
皇帝となった司馬炎は民心を得ることに腐心したため、幸い国内に大きな混乱は見られませんでした。また積極的にかつての魏、蜀の者たちを登用し、人材確保にも努めます。
この時、かつて蜀に仕えていた樊建(はんけん)に諸葛亮について尋ねて、このように嘆いています。
「諸葛亮が補佐として仕えていれば、余も政務でここまで苦労することはなかったであろう…。
呉征討と中華統一
一方、三国最後の国家である呉は第4代皇帝の孫晧(そんこう)が国を治めていました。しかし、孫晧は暴政の限りを尽くし、歯向かうものは皆殺しという有様…。
なんとか名将陸遜(りくそん)の子である陸抗(りくこう)や丁奉(ていほう)たちが国を支えていましたが、彼らが亡くなると、もはや傾国の呉を支えられるものは誰もいませんでした。
279年11月、王濬(おうしゅん)と杜預(とよ)の進言をうけた司馬炎は、遂に呉討伐の詔を諸将に発布し、20万の大軍勢を出撃させます。
晋王朝建国以来、着々と軍備を勧めてきた晋に対し、なんの対策も立てていなかった呉に対抗する手段はなく、280年3月、呉帝孫晧は晋に降伏してしまいます。
ここに100年近くに渡った群雄割拠・三国鼎立の時代は終わりを告げ、中華は晋による統一を成し遂げました。
淫蕩(いんとう)に陥った英君
中華統一の偉業を果たした司馬炎ですが、ここから急に政務に感心をなくしてしまいます。
もともと司馬炎は中華統一以前に国内の女子の婚姻を禁止して、自分の後宮に女子5千人を選出するほどの女好きでしたが、ますますこの性分は加速していきます。
武帝(司馬炎)は降伏した呉の後宮の宮女5千人を編入すると、1万人にも及ぶ広大な後宮を築き、夜な夜な羊に引かせた車に乗って宮女たちの下を訪れた。
この羊の車が止まったところの女性のもとで、一夜をともにするのである。また、宮女たちも自分のところに皇帝を来させようと、自室の前に竹の葉を挿し、塩を盛っておいた。羊が竹の葉を食べ、塩をなめるために止まるからである。
ちなみにこれが「盛り塩をする」の語源となったとも言われています。
また、政治においては後漢王朝時代から続く異民族の中原移住政策によって、従来の漢人住民と異民族出身の者たちが、たびたび衝突を起こすようになっていました。
弟の司馬攸や一部の家臣らは異民族出身の者たちを郷里に帰すべきだと主張しますが、司馬炎は大事と見ておらず、異民族統御官の監視を強めるだけに留めました。
司馬炎の死
晋による統一で平穏になったと思われた中華の地に再び暗雲が立ち込めます…。
司馬炎の皇太子である司馬衷(しばちゅう)は文字も書けるかどうかの有様であり、誰の目から見ても暗愚でした。そのため、多くの家臣は司馬炎の弟である司馬攸が跡を継ぐべきだと考えます。
しかし、司馬炎はかつて後継者の座を巡った司馬攸を快く思っておらず、荀勗(じゅんきょく)と馮紞(ふうたん)といった佞臣の進言を受けて、司馬攸を中央から遠ざけてしまいます。
これを受けて司馬攸は「私は、時代を正すには用済みとなってしまった…。」と発し、失意のうちに病死。さらに司馬炎はこのことに意見を申し出た者は全て左遷・免官とする暴挙に及びます。
その後も司馬炎は後宮に入り浸り政務を顧みることはなく、第二皇后の父である楊駿(ようしゅん)が外戚として権威を奮ったため、宮中は乱れ、国内は荒廃し始めます。
このような状態が続く中、三国統一より10年後の290年3月、多くの不安要素を残したまま司馬炎はこの世を去ります。享年56歳。
晋王朝のその後と八王の乱
司馬炎は晋王朝の建国時に自らの一族を王や都督に任命し、彼らに大きな軍権を持たせました。
司馬炎は彼らに反乱や北方の異民族を対処してもらおうとの考えでしたが、逆にこの政策は晋国内の不安定さから、彼らに独立心を煽る結果となってしまいます。
また宮中では、司馬炎の後を継いだ司馬衷の皇后である賈南風(かなんぷう)と楊駿らの一族が激しい権力闘争を繰り広げたため、事態は司馬一族らによる内乱に発展。ここに八王の乱と呼ばれる争いが繰り広げられます。
結果、司馬炎が大事と見ていなかった中原の異民族らが一斉蜂起するまで事態は悪化し、中国は隋による中華統一まで300年近く大動乱の時代を迎えることとなります。
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