ベトナム伝説の女戦士
救国の女戦士といえばフランスのジャンヌダルクなどが有名ですが、ベトナムにも有名な女戦士が存在します。その人物が今回紹介する趙氏貞(ちょうしてい)です。
彼女自身は正史「三国志」には記述はないのですが、その身体的特徴と活躍からベトナムにおいては「中国の支配に抵抗した民族の英雄」と崇められる存在となっています。
孫権(そんけん)が擁する呉帝国は趙氏貞率いる反乱軍鎮圧に手を焼くわけですが、総大将の陸胤(りくいん)はそこで一計を案じます…。
趙氏貞の活躍と逸話を交えながら紹介していこうと思います。
交州について
まず最初に趙氏貞について説明する前に彼女の活躍の地である交州交阯郡(こうしゅうこうしぐん)について説明します。
もともと交州は前漢朝時代から最南端の領域であり、なかなか統治が行き届き難い土地でした。
後漢王朝を築いた光武帝・劉秀の時代においても、徴側(ちょうそく)と徴弐(ちょうに)と呼ばれる姉妹が反乱を起こしており、漢民族からの支配を嫌う土地でもありました。
後漢王朝末期になると、朝廷から交阯太守に任命された士燮(ししょう)の優れた統治により、交州は漢民族と土着人が共に暮らす国際色豊かな土地となります。
しかし、江東の孫権が勢力を拡大すると、210年に士燮は降伏し、交州は孫権の勢力下となってしまいます。
幸い士燮が引き続き太守であったため、大きな混乱は見られませんでしたが、226年に士燮が亡くなると、後を継いだ士燮の子供たちが反乱を起こしたため、再び交州は不安定な土地へと戻ってしまいます。
趙氏貞・趙国達の反乱
士燮の子供たちの反乱は孫権の派遣した呂岱(りょたい)の軍により鎮圧されますが、その後も断続的に土着人たちの反乱が勃発し、孫権を悩ませます。
そのような状況の中、248年、趙国達(ちょうこくたつ)という者が妹の趙氏貞と共に交州九真郡において反乱を起こします。
特に趙氏貞の活躍は目覚ましく、若干23歳の若さでありながら「麗海婆王」の異名で呼ばれ呉の軍勢を恐れさせます。
趙氏貞の凄まじい身体的特徴
ここで一旦、趙氏貞という人物について解説していきたいと思います。彼女について書かれた歴史書「大越史記全書」や「交州記」をまとめると以下のように書かれています。
趙氏貞、またの名を趙姫。郡衆を集めて九真郡を攻掠(略)す。
身長9尺、乳長3尺、乳は背後に施(およ)び、常に金の靴を履いていた。
結婚をせず、少男と姦通をし、数十の側近が侍立していた。
常に象の頭に乗り、敵と戦を交う。
身長9尺といえば「三国志演義」の関羽(約216cm!)と同じ身長です。
そして驚くべきはその胸の大きさです…。
3尺といえば現代の大きさで言えば約90cm…。
三国時代の大きさでは約70cmです…。
それと、両方合わせてなのか、片方だけの大きさなのかは分かりません(汗)
また、身長とバストサイズを現代の尺度から予測して計算すると…
身長=約273cm バストサイズ「身長×0.54」=約147cm
….もうめちゃくちゃです(笑)
身長もですが、バストが「爆乳」どころか「超乳」の域に達しています…。
「乳房が背後に及ぶ」どころじゃありませんね…。
ただ、古今東西古代の歴史書の特徴として「その人物の身体的特徴を大袈裟に書く」といったところがあるので、さすがにこれは誇張しすぎだと思います。
まぁ、最終的に彼女の身体的特徴に関しては皆さまのご想像にお任せします…。
(※余談ですが現在ギネスに認定されている世界一の巨乳は202cmだそうです…。事実は小説より奇なりですね…。)
陸胤出撃す
閑話休題し、話を交州情勢に戻します。趙氏貞と趙国達らの反乱を捨て置けずと見た呉帝孫権は討伐を決定。
呉の名将である陸遜(りくそん)の甥である陸胤(りくいん)を交州刺史・安南校尉に任命し、出撃を命じます。
この陸胤、かつては孫呉の後継者争いである「二宮の変(にきゅうのへん)」に巻き込まれ、激しい拷問を受けるも、見事に政変を生き延びた気骨の人でもありました。
象にまたがり、呉軍を蹴散らす趙氏貞らは連戦連勝でしたが、陸胤率いる軍勢が到着すると戦況は一変し、苦戦を強いられます。
一方、陸胤らもなかなか反乱軍に決定打を与えられず、戦いは半年にも及ぶ事態となります。
陸胤の奇策の逸話
ここで陸胤が趙氏貞を破った逸話をご紹介します。
戦線が膠着化し、参っていた陸胤であったが、土着人の情報によると、趙氏貞はまだ男を知らぬ生娘(処女)であると聞き及んだ。
そこで陸胤は一計を案じ、出撃した。
案の定、趙氏貞が象に乗り対峙してきたが、陸胤は趙氏貞の前で全裸となり、突撃を行った。
趙氏貞はこれに驚き恥じらいながら遁走したので、陸胤は賊軍を打ち破ることに成功した。
趙氏貞は史書に「少男と姦通をした」との記述があるので、さすがこれは逸話でしょうが、結果的に陸胤は趙氏貞を撃破することに成功します。
反乱その後
実際に全裸で突撃したのかは分かりませんが、陸胤は半年に及ぶ戦いを遂に制します。
趙氏貞の最後については諸説あり「討死にした、川に身投げした、負傷した際に誤って象に踏み殺された」とも言われています。
また、兄の趙国達も討ち取られ、九真郡は陸胤によって平定されました。
陸胤はそのまま他の反乱も鎮圧し、交州反乱の首魁の黄呉を降参させることに成功。説得により3000家以上を投降させたと言います。
また、陸胤は交州の民たちに財貨なども与えたので、賊100人以上と5万人以上の民が陸胤の軍に加入を希望したので、呉の兵力は大きく増加し、陸胤はこの功績により安南将軍へと昇進しました。
ここに趙氏貞を中心とした交州の反乱は幕を閉じます。
おわりに
「三国志」における異民族の反乱と言えば南蛮王の孟獲などが有名ですが、今回紹介した趙氏貞の反乱もなかなかインパクトのある話です。
また、女性である趙氏貞が中心となって兵を率いた訳ですが、これは古来のベトナムが「母系を中心とした社会であった」という時代背景が、今回の事件から読み取ることも出来ます。
彼女に関して興味を持った方は、ベトナムの歴史も知ることができるので是非いろいろ調べてみてくださいね。
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