三國志

魏延は本当に裏切り者だったのか?【正史三国志の実像】

魏延に付き纏う裏切り者のレッテル

魏延は本当に裏切り者だったのか?【正史三国志の実像】

諸葛孔明の北伐に於いて、軍事面で最も活躍した武将の代表格として名前が上がるのは 魏延文長(ぎえんぶんちょう)である。

三国志ファンに於ける魏延のイメージだが、一言で言えば「裏切り者」である。

演義では劉備陣営に加わる際に孔明から言われた「反骨の相の持ち主」という言葉が裏切りフラグとして使われ、実際に孔明の死後、魏延は謀反を起こしている。

演義に於ける彼の最期の台詞である「このわしを殺せる者はおるか」という言葉は、魏延を斬った馬岱の「ここにいるぞ!」という言葉とセットで色々なところでネタにされている「名言」として有名だが、魏延の謀反は演義のフィクションであり、魏延を語る上で欠かせない「反骨の相」という言葉も正史には登場しない。

では、何故魏延は「裏切り者」というレッテルを貼られたのだろうか。

今回は、正史の記述から演義では語られない魏延の実像について調べてみた。

正史と演義で違う魏延の加入

魏延の前半生だが、荊州の義陽郡の出身である事しか書かれておらず、211年の劉備の益州攻めに従軍したところから彼の名前が初めて正史に登場する。(なお、魏延の生年は書かれておらず、劉備の陣営に加わった経緯も不明である

ちなみに、益州の戦いに於ける魏延の活躍だが、度々戦功を立てたため牙門将軍に昇進したというシンプルな記述しかなく、どれだけ活躍したかいまいち伝わりづらい。

演義に於ける魏延の登場は正史よりも早く、劉表配下の武将として登場する。

民を連れて曹操の追撃から逃れた劉備を城に招き入れようとするが、既に曹操に降伏していた蔡瑁が劉備を攻撃したため魏延は周囲に失望して、長沙太守の韓玄を頼って逃げ出す。

赤壁の戦いの後、荊州を手に入れるべく行動を起こした劉備は長沙を攻め、韓玄の配下として魏延が再び登場する。

この時、韓玄配下の黄忠が関羽との戦いで互角に戦うも互いに不利な状況な時に見逃し合ったことから、黄忠は劉備と内通している事を疑われ処刑されそうになったが、魏延が周囲を煽動して韓玄を殺し、劉備に降伏する。

魏延という腕の立つ武将の加入に劉備は喜ぶが、孔明は魏延に対して反骨の相があるから斬るよう劉備に告げる。

主君を殺して降伏したのは事実であるものの、魏延を気に入った劉備は孔明に対して魏延を許すよう笑顔で諭すが、三国志演義のストーリーとしては色々な意味で「フラグ」が立っていた。

蜀の名将から謀反人へ

魏延は本当に裏切り者だったのか?【正史三国志の実像】

※魏延 wiki(c)Strike7799

正史の魏延は順調に武功と昇進を重ね、ついには張飛を差し置いて蜀防衛の最重要拠点である漢中の太守を任せられるまでに出世する。(なお、劉備が漢中太守に魏延を指名したのは、張飛の部下に厳しい性格が周囲から嫌われていたのを問題視したからと言われている

223年、ある意味張飛以上の扱いを受けるまでに厚遇してくれた劉備がこの世を去ると、魏延の事実上の上司は孔明になる。

魏延は孔明の下でも高い能力を発揮し活躍して蜀随一の武将の名を欲しいまままにするが、北伐の度に「自分が別動隊一万を率いて潼関で落ち合い、韓信の故事に倣いたい」という策を提案しては却下されていたため、孔明に対して不満を持っていた。

実のところ魏延伝の表記だけでは説明不足でいまいち分かりづらいが、いずれにせよ演義で有名な「長安急襲策」同様、魏延の策が孔明から採用される事はなかった。

自分の策を却下された魏延は孔明を「臆病者」と呼び、丞相の指揮では自分の能力を活かせないと嘆いていたが、現代社会に置き換えて考えると、優秀な社員が自分の実力を過信して無茶なプランを提案したはいいものの「非現実的すぎる」と上司から却下されて反抗的な態度を見せるのは珍しい話ではない。

また、魏延はプライドが高い性格であり蜀の武将としては自分がナンバーワンという態度を隠さなかったため、蜀の人間はみんな魏延を立てるよう接していたと書かれている。

これだけ見ると、現代社会にも少なからず存在する「仕事は出来るけど性格的に問題のある扱いづらい社員」である。

また、孔明に対して強く不満を持っていたのは事実にせよ、魏延は決して蜀を裏切ろうという意思は持っていなかった。(少なくとも正史には書かれていない

結局のところ、魏延の気難しい性格をヒントに演義では裏切り者に仕立て上げられただけであり、魏延は演義の「被害者」というべき存在である。

魏延の謀反の真実

234年、孔明が陣中で病没すると蜀軍は撤退の準備を始めた。

魏延は自分が軍を率いて戦いを継続する事を希望したが、それ以上に撤退の指揮を任された楊儀との関係が最悪で、楊儀には従えないという面もあった。

結局、蜀軍は魏延を残して撤退するが、それに怒った魏延は撤退する蜀軍より先回りすると桟道を焼き払って足止めし、更には楊儀が謀反を起こしたと劉禅に上奏する。

一方の楊儀も魏延が謀反を起こしたと劉禅に上奏しており、劉禅の元には差出人と謀反人の名前が入れ替わっただけで、全く同じ内容の上奏文が二つあった。

どちらを信じるべきか劉禅が董允蒋琬に相談したところ、二人とも肩を持ったのは楊儀の方だった。

楊儀を殺せばみんなは自分に従うはずと考えて蜀軍を襲撃した魏延だが、戦う相手は同じ蜀軍の仲間であり、しかも魏延の私怨による戦闘であったため大義名分もなく、魏延の前に現れた王平からこれが正当性のない戦いである事を主張された魏延の兵士は次々と逃げ出し、魏延も漢中への撤退を余儀なくされる。

結局、魏延は追手としてやって来た馬岱に斬られるが、一連の流れを追っても(自分が死んだら撤退するようにという孔明の命令を破ったのは事実だが)謀反を起こした裏切り者とは言い難いのが正史に描かれた魏延の実像である。

魏延の実像と変わりつつある評価

演義では正史よりも孔明に対する不満を漏らすシーンが多く、裏切り者というイメージを持ちやすいようある種の印象操作をされている。

それに加え、演義の有名すぎる最期が更に魏延のイメージ定着に一役買っているが、前述の通り史実の魏延の記述を見ると性格に難があるものの、蜀に対して裏切りや謀反と呼べるような行動は起こしておらず、楊儀の襲撃も国に対しての裏切りではなく自分が軍の実権を握るためだった。(蜀を裏切るつもりならそのまま魏に降伏する方が早いし、将来的に楊儀を殺せる確率が高くなるため魏延の行動は謀反ではない、というのが「魏延の謀反否定説」の根拠である

但し、自分がナンバーワンと公言する態度や日頃の行いによって人望がなく、それが結果的に自分の死を招く事になるのは皮肉であり、魏延の最大の誤算だった。

自分を過大評価した結果、自分の身を滅ぼした上に蜀を裏切るつもりがないにも関わらず悪役として後世に名が残った魏延だが、数々の武功は勿論、蜀の重要拠点である漢中を長きに渡って過失なく治めた手腕など、最近では純粋に魏延の実力を評価する声も出ている。

三国志の登場人物に対する評価は日々変わりつつあるが、今後も魏延の評価がどう変わるか見逃せない。

 

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