キラキラネームとは「絹」と書いて「しるく」、「皇帝」と書いて「しーざー」、「桃花」と書いて「ぴんく」と読むなど、本来の漢字の読み方とは違う人目を引きやすい奇抜な名前の事である。
就職面接や学校生活などで差別を受けることが多く、あまり良い印象がないキラキラネーム。
親の民度が低いなどとして批判を受けているが、キラキラネームの元祖と呼ばれる人物はいったい誰だったのか?
森鴎外の子供たちの名前
日本におけるキラキラネームと呼ばれる人物の元祖は「舞姫」や「うたかたの記」などを記した明治時代の文豪、森鴎外(もりおうがい)である。
森鴎外の子供たちについてはクローズアップされることが少ないのだが、実はその名前はキラキラネームで溢れている。
これはなぜかと言うと、森鴎外の本名である「森林太郎」という名前が外国人には発音が困難な名前であったため、自身がドイツ留学を行った際に名前を覚えてもらうことが出来ずに困ってしまったからだという。
今回はそんな森鴎外の子供たちの名前について解説していきたい。
長男 於菟(おと)
まず最初に、長男の名前は於菟と書いて(おと)と読む。
寅年生まれだったことから父、鴎外が中国の古書「左伝」から虎を意味する於菟をとって名付けられた。
生まれて間も無く鴎外が妻と離婚したことで、5歳までタバコ屋・平野甚三方(歌人平野万里の実家)に預けられたが、その後、森家に引き取られると支配的な性格の祖母、峰に引き取られることとなり、父、鴎外と同じく、熱心な教育を受けた。
1918年に学生結婚をして、4年後の1922年に欧州留学を行った。その後、医学者として活動した。専門分野は解剖学である。
長女 茉莉(まり)
長女の名前は茉莉と書いて(まり)と読む。
生まれつき病弱であったため、特に父、鴎外の溺愛を受けて育つこととなった。エッセイストや小説家として活動を行い、1975年にエッセイスト・クラブ賞を受賞した。
代表作は「父の帽子」や「恋人たちの森」「甘い蜜の部屋」などが存在する。
次女 杏奴(あんぬ)
次女は杏奴と書いて(あんぬ)と読む。
杏奴は気が強い性格で、三男の類がいじめられそうになると守り抜き、類の友人たちから尊敬されていたという。
1931年10月、類とともにフランスにわたり、芸術の都パリにて洋画の教育を受けた。
次男 不律(ふりつ)
不律と書いて(ふりつ)と読む。生まれつき病弱であったため、生後半年でなくなっている。
三男 類(るい)
三男の類は洋画家・藤島武二に師事して油絵を学んだあと、父、鴎外に関するエッセイを発表し、文学の世界に足を踏み入れた。
代表作は「鴎外の子供たち あとに残されたものの記録」や「森家の人々 鴎外の末子の眼から」などである。
キラキラネームが好きな文豪
森鴎外以外にも、キラキラネームが好きな文豪は数多く存在する。
大正時代の文豪、大杉栄と伊藤野枝夫妻(※未入籍)は「魔子(長女)、エマ(次女・三女)、ルイズ(四女)、ネストル(長男)」という名前を子供たちにつけている。
「乱れ髪」などを記した与謝野晶子夫妻に関しては、「アウギュスト(四男)、エレンヌ(五女)」など、とても日本人とは思えない名前を子供たちにつけている。
キラキラネームの重要要素と海外の事例
ここまでの事例を見てみると、キラキラネームには漢字が重要な要素であることが分かるだろう。
海外では王室と同じ名前をつけることは法律で禁止されていたり、企業名などを自分の子供につけようとしても許可がおりない場合が多い。
また、アルファベットのような表音文字の場合は音のみで個性を表すしか方法がない。
漢字のようにスムーズにキラキラネームを作ることは海外では難しいのである。
名前のリストを法律で作っている国
ハンガリーでは新生児に命名する名前のリストが存在し、国民は基本的にそのリストの中から名前を選ぶこととなる。
リストにない名前をつけたい場合は、ハンガリー科学アカデミー言語研究所に申請し、正式に認められる必要があるという。
近年の日本ではキラキラネームは疎まれる傾向にあるものの、比較的自由に名前をつけられるという点では恵まれていると言えそうだ。
参考文献 : 森家の人びと 鷗外の末子の眼から
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