足利義政とは
室町幕府第8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)は、京都東山に銀閣寺を建て東山文化を花咲かせた将軍として良く知られている。
では、将軍としてはどうだったのか?
義政は祖父である3代将軍・義満を敬愛し、偽政者になろうと頑張るも失敗続きだった。
しかも優柔不断で「応仁の乱」が起きるきっかけを作った上に、政治に無関心になり、酒と贅沢に溺れたダメな将軍とされることが多い。
今回は義政が本当にダメな将軍だったのか、その生涯を前編と後編にわたって掘り下げていきたい。
幼き将軍の誕生と苦難
足利義政は、永享8年(1436年)6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)と側室・日野重子(ひのしげこ)との間に生まれた義教の五男であり、幼名は「三寅または三春」、その後「義成」、そして「義政」となった。
ここでは一般的に知られる「足利義政または義政」と記させていただく。
同母兄には嫡子である義勝がいた。
義政は母・重子の従弟(烏丸資任)の家で育てられ、「御今(おいま)」という才女が義政の養育係となった。
この時、兄・義勝が将軍の後継者として決まっていたため、義政は他の兄弟と同様に京都の有力寺院に出家して僧侶として一生を終えるはずだった。
ところが、義政はわずか14歳で将軍となったのである。
なぜ五男の義政が将軍になったのだろうか?
事の発端は6代将軍の父・義教にあった。
義教は生来気性が激しく、守護大名の粛清や、権威に背く者を次々と処罰していた。世間では「万人畏怖の人」と恐れられ「悪将軍」とまで呼ばれていた。
嘉吉元年(1441年)義政が5歳の時、父・義教は播磨国の守護大名・赤松満祐に殺害されてしまう。(※嘉吉の乱)
7代将軍には兄・義勝が就任したが、2年後に義勝はわずか10歳で早世してしまった。そこで残った弟たちの中から7代将軍・義勝と同じ母を持つわずか8歳の義政が、8代将軍となることに決定したのである。
しかし義政はまだ8歳と幼く、政を行なうには早過ぎたために、管領・畠山持国が政務を代行し、幼い将軍を補佐することになった。
管領とは将軍を補佐する役職で、畠山氏・斯波氏・細川氏が持ち回りで担当する形となっていた。
しかしこの頃は斯波氏の力がかなり弱くなっており、義政の後見となった畠山持国と細川勝元が交互に管領を務めていた。
宝徳元年(1449年)14歳で元服した義政は、正式に8代将軍に就任した。
義政は弱まった将軍の力を回復しようと政に意欲的で、周囲も期待をかけていたという。
武威によって天下を治めた祖父・義満を敬愛し、義満のような将軍になろうとしたのである。
武より文を好んだ
しかし、どうやら義政は武人には向かない性格であったようだ。
享徳2年(1453年)義政は武芸の鍛錬を兼ね「犬追物(いぬおうもの)」の催しに臨席した。
犬追物とは、走る犬に馬上から先の丸い矢を射て、技の優劣を競う武芸であった。
義政は犬追物をあまり好まなかったようで、屋敷に戻ってきて「犬追物というのは何と騒々しいことであろう」と嘆いたという。
同じ頃、義政は屋敷内にあった桐の木から箏を作らせ、「衛文」という名を付けた。(衛文とは文事(学問・文芸)を衛るということ)
義政は「武」よりも「文」を好んだのである。
同年、18歳の時に天皇から賜った「義成」という名から「義政」に改名している。
その理由として、後花園天皇の第一皇子が「成仁親王」となったことや、「義成」は武威の象徴のような名であったことから、武威の大きな期待の名に耐えられずに「義政」に改名したとも言われている。
しかし義政に安穏の日々は訪れなかった。
父・義教のかつての圧政は、武家・公家・庶民にまで強い影響を及ぼしていたのである。
義政の時代になると京都やその周辺で、年貢の減税や善政を求める「土一揆」が頻発していた。
義政が後継となってわずか2か月後には、40人ほどの反乱勢力が後花園天皇の内裏に乱入して火をかけ、三種の神器のうちの剣と勾玉を奪い取り、数百人の仲間と共に比叡山に立て籠もるという事件も起きている。(※禁闕の変)
この反乱勢力は南朝方の残存勢力で、亡くなった父・義教は南朝方の残存勢力にも圧力をかけていた。
彼らは幼い主への交代という社会不安のタイミングを狙って、反発行動に出たのである。
また、武士からの反発も激しく、地方の領主たちは幕府の命令を無視して武力で所領拡大を目論むようになっていった。
様々な方面で父・義教への反発が噴出しており、これらを新将軍として一手に引き受けることになった義政は、時代の混乱の渦に飲み込まれていくのである。
若き将軍の威厳と失意
前述した通り、14歳で8代将軍になった義政は政を治めていく意欲に満ちていた。
そんな義政を支えていたのは管領・畠山持国である。持国は義政の将軍就任を後押ししたこともあり、義政から厚い信頼を得ていた。
その持国が頭を悩ませていたのが後継問題であった。持国には息子がいなかったのだ。
そのため実の弟・持富を後継としたのだが、後に実子の義就(よしひろ)が誕生したため、持国は心変わりをする。
文安5年(1448年)義就が12歳になると弟・持富の後継を廃し、家臣の反対を押しのけて義就を後継に指名したのである。
排除された弟・持富は、兄の決定に従い、4年後に死去した。
そのため、事は落ち着くかと思われたのだが、享徳3年(1454年)義就が後継となったことに納得がいかなかった反対派の家臣たちが、持富の子・弥三郎を担ぎ上げる。
こうして畠山の家臣団は、義就派と弥三郎派に分裂してしまったのである。
この時、畠山持国の政敵であった有力守護大名の山名宗全と細川勝元が弥三郎派についた。
弥三郎を畠山家の当主にすることで、持国の力を削ごうとしたのである。
畠山家では血で血を洗う内紛が勃発し、これに将軍・義政が介入した。
持国に信頼を寄せていた義政は義就を支持し、弥三郎を排除する動きを見せた。
ところが武力衝突が起き、山名宗全と細川勝元が支持する弥三郎派が勝利すると、なんと義政は弥三郎の家督相続を認めてしまったのである。
しかし義政は納得がいかなかったのか、弥三郎派の勝利に貢献した細川勝元の家臣を処刑しようとした。
これに対し、細川勝元は当然激怒し「家臣を処刑するなら管領を辞める」と訴えた。
これに慌てた義政は、細川勝元の家臣の処刑を撤回し、今度は山名宗全を討伐しようとしたのである。
山名宗全と親密関係にあった細川勝元は再び激怒し、山名宗全討伐に集結した武士たちに解散を呼びかけて、山名宗全討伐を中止させた。討伐は中止されたが義政の怒りを買った宗全は、家督と守護職を嫡男の教豊に譲り、但馬へ下国したのである。
こうして義政が介入したことにより、事態はより複雑となった。
義就が家督を継承
享徳4年(1455年)畠山持国が死去したが、当主となったのは弥三郎ではなく、なんと義就であった。
義就は形勢不利となり伊賀へ逃れていたが、山名宗全が下国した一週間後、再び上洛して弥三郎をを追い落とし、義政と対面して家督相続を認められたのである。
結局は、義政の思い通りの結果となったのだ。
事態を複雑にさせた義政の介入には、ある意図があったという。
義就を支持することで細川、山名氏に対抗し、さらには嘉吉の乱で討伐された赤松氏の復興を狙ったとされている。
義政は、将軍らしい威厳を見せつけたかったのかもしれない。
父と兄が相次いで亡くなったことで弱まってしまった将軍の力を、なんとか回復したかったのである。
義政の願いは、敬愛する祖父・義満の政策への回帰だった。
後編では「日本三大悪女」と評される日野富子との結婚、さらに応仁の乱をこじらせた義政について解説する。
この記事へのコメントはありません。