室町時代

『美しすぎた将軍』 足利義尚 〜不運の室町9代将軍の生涯

その美貌から緑髪将軍と称された足利義尚

画像:伝足利義尚像(天龍寺蔵) wiki c

画像:伝足利義尚像(天龍寺蔵) wiki c

室町幕府第9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)にまつわる2点の肖像画が現存しています。
1点は『地蔵院本』、そしてもう1点は、『天龍寺本』と呼ばれるものです。

重要文化財に指定される前者は、騎馬武者姿の『絹本著色騎馬武者像』、後者は束帯姿の人物が描かれています。
どちらも、室町初代将軍・足利尊氏の肖像画と伝えられてきましたが、日記などの記録からその装束・特徴などが義尚に似ていることから、今は両画とも「足利義尚の肖像画」と考える研究者が多くを占めています。

どちらの肖像画も、その顔立ちに特徴があります。キリリとした切れ長の大きな目。高く整った鼻。小さいが引き締まった口。どこを見ても、高貴な武家そのものの凛々しく美しい顔立ち。

それもそのはず、足利義尚は、その容姿を古記録に「御容顔いとも美しく、すきのない玉の御姿」と記され、また、当時の人々から「緑髪将軍」と称えられた美男子だったのです。

今回は、そんな足利義尚の生涯。とくに、父義政との確執から生じた不運な最後について紹介しましょう。

応仁の乱後、9歳で室町幕府第9代将軍に就任

画像:応仁の乱 wiki c

画像:応仁の乱 wiki c

1473(文明5)年になると、1467(応仁元)年から長らく続いた応仁の乱に、ようやく終焉の兆しが見え始めました。

それは、この年の3月に山名宗全、5月に細川勝元と、西軍・東軍の総帥が相次いで病没したことに関係があります。これにより両陣営ともに厭戦気分が広がり、急速に和平の機運が高まっていきました。

この機に乗じて、室町幕府第8代将軍・足利義政は、征夷大将軍の座を、正室・日野富子との間に生まれた嫡男の義尚に譲ります。足利幕府第9代将軍・足利義尚の誕生です。

しかしこの時、義尚はわずか9歳。政治の実権は義政が握り、御台所の富子が後見するという体制が敷かれました。

そして時が経ち、1479(文明)11年、15歳になった義尚は「判始」の儀式を終えます。この式を行うことで、成人と見なされ自らの花押を公文書に記入し、将軍としての政務である評定始・御前沙汰始を開始することができるのです。

画像:足利義尚の花押 wiki c

画像:足利義尚の花押 wiki c

しかし、この期に及んでも義政は将軍としての権限を、義尚に全く与えません。その理由は、ひとえに義政の一方的な都合によるものでした。

一般的な義政の人物像は、余り政治に興味を持たず、文化面に比重をおいた将軍ということになるでしょう。彼が、創出した東山文化は小中高の日本史の教科書にも最重要単元として記載されます。

自ら建設した東山殿(慈照寺)、すなわち後の銀閣寺・東求堂内の書院造。宗祇らによる連歌(れんが)、雪舟らの水墨画。その他、茶の湯、生け花など、東山文化は現在に至る様々芸術を生み出しました。

画像:慈照寺全景(写真:高野晃彰)

画像:慈照寺全景(写真:高野晃彰)

そんな義政は、応仁の乱が終わるや否や東山殿の建設を開始します。その建設には莫大な費用が掛かることは言うまでもありません。その費用をねん出するために、彼は将軍としての諸権限を手放すわけにはいかなっかのです。

よく応仁の乱により、室町将軍の権威が完全に失墜したと言われます。しかし、戦国期に入ってもその権威は持続していました。

その代表例が、13代将軍義輝による諸大名の抗争の調停・仲裁。また、15代将軍義昭織田信長の同盟、さらには義昭による信長包囲網作戦などが挙げられます。

豊臣秀吉が天下を統一するまで、室町将軍の権威は武士の頂点にあったのです。

義政は、将軍の権威を保持することで莫大な報酬を得ていました。そしてそれは、彼が推進する文化面の費用として必要であったのです。

義政から独立するため近江へ親征を開始する

画像:細川政元像(龍安寺蔵)wiki c

画像:細川政元像(龍安寺蔵)wiki c

父の権力保持に、若い義尚は不満を持ち時に反発します。自身で髷(まげ)を落としたり、重臣の屋敷に引きこもったりして、生母富子を心配させました。

義尚の奇行に対し義政は、少しずつ将軍の権限を義尚に譲ります。しかし、全権を彼に譲ることはなく、様々な形でその政務に干渉しました。

こうした義政に対して、義尚は思い切った行動に出ました。近江の守護大名・六角高頼を自ら討つと宣言したのです。高頼は、近江にある将軍家直臣の所領を横領し、彼らを経済的な危機に追い込んでいました。

将軍は全ての武家の頂点に立つ者として、武士たちの本領を保護する存在です。このような理由で、義尚は六角追討を決定したのです。

しかし、所領安堵の戦いに、わざわざ将軍が自ら出馬する必要はありません。ではなぜ義尚は自ら先陣に立つことを決めたのか、それは2つの理由があったと考えられます。

一つは、将軍家直参家臣の所領を保護する戦いを自ら行うことで、父義政に依存する幕府家臣団を自分の味方とするため。

そしてもう一つは、京都から離れることで父の政治的な介入から脱し、政治的な自由を手に入れ親政を行うことにありました。

義尚は、全国の諸大名に六角追討の号令を発します。それに応え、細川政元をはじめ、斯波・畠山の三管領、山名・一色・京極・大内・赤松・土岐など、多くの大名が兵を率いて義尚のもとに参陣し、その兵数は万余に及んだといいます。

「天下壮観」とまで称えられた若武者振り

画像:伝足利義尚像『絹本著色騎馬武者像』 wiki c

画像:伝足利義尚像『絹本著色騎馬武者像』 wiki c

1487(長享元)年9月12日、義尚は六角高頼追討軍を率いて京都を出陣します。将軍の親征は、1391(明徳2)年、明徳の乱の3代将軍義満以来、100年振りのことでした。

義満は室町幕府全盛期の将軍です。しかし義尚は、応仁の乱を経てなお将軍配下の諸大名ほぼ全ての動員に成功したのです。

追討軍を率いる義尚は、この時23歳。その雄姿が『絹本著色騎馬武者像』に描かれています。梨打ち烏帽子を戴き、紅金襴の直垂を着用。弓を持ち矢を背負い、河原毛の名馬に騎乗した颯爽とした姿は、まさに威風堂々とした若き将軍そのものでした。

その威容を『蔭凉軒日録』には「その御形体、神工もまた画きだすべからず。天下壮観、これにすぎるはなし」と記され、大群衆はみな手を合わせて見送ったとまで伝わります。

しかし、このわずか2年後に義尚の運命は暗転するのです。

志し半ば、僅か25歳で近江鈎の陣中に没する

画像:足利義尚木像(等持院) wiki c

画像:足利義尚木像(等持院) wiki c

義尚率いる幕府軍は、瞬く間に六角氏の本城・金剛寺城(滋賀県近江八幡市)を陥落させ、高頼は甲賀に落ち延びます。しかし、義尚は追撃の手をやすめず自ら兵を進め、近江・鈎(まがり・滋賀県栗東市)に本営を構えました。

義尚は鈎の本営に腰を据え、六角征伐とともに、この地で本格的な執政を開始します。本営は、将軍居館として整備され「鈎御所」「江州御所」などと呼ばれ、将軍が執務を行う政庁としての役目も担っていました。

義尚は、京都から奉行衆を呼び寄せ、それに近臣を加え評定衆を組織し裁判などを行います。彼はついに父から自立し、第9代将軍としての治世をスタートさせたのです。

一方、京都の義政はこの頃から脳卒中の発作に襲われ、病臥することが多くなり、義尚に対して政治的な介入を行うことは困難でした。

義尚は親政を続けることで政治的な実績を重ね、軍事的にも六角氏を圧倒し、その存在感を高めていきました。しかし京都に凱旋し、完全なる政権樹立が見えてきたその時、不運が襲い掛かります。

重篤な病に倒れたのです。

もともと蒲柳の質であった義尚。軍営での激務とともに、京都から訪れる公家・高僧の接遇を自ら行ったことにより酒量も増え、病魔が心身を蝕む事態に陥ってしまったのです。

たちまち重態となった義尚を心配して、京都から母・日野富子が駆けつけますが、1489(延徳元)年3月26日早朝、義尚は近江鈎の陣中に没しました。わずか25歳の生涯でした。

まとめにかえて・足利義尚の歴史的評価とは

画像:足利将軍家の菩提寺・等持院(撮影:高野晃彰)

画像:足利将軍家の菩提寺・等持院(撮影:高野晃彰)

義尚の遺体は富子に付き添われて京都へ戻り、足利将軍家菩提寺の京都・等持院へ葬られます。義尚の遺体を護送する富子一行が入洛する時、まるで凱旋将軍を迎えるように多くの人々が集まったそうです。

そして、室町時代の花の名手・大沢久守の日記『久守記』には、義尚の葬儀の際、その遺骸と最後の別れを迎えた富子の様子を記しています。

「御台、御輿の内にて声も惜しまず、むづかりけり。知るも知らぬも、涙を流しけり」(『久守記』)

乗っている輿の中で声を惜しまず号泣する富子。これを聞いた居並ぶ人々も、みな皆涙を流しました。

足利義尚に対する歴史的評価は一般に辛辣です。その理由は鈎の陣中で執政を行う時、一部側近にのみ幕政を委ねた。酒色に溺れて死んだ。親征を行ったものの何の成果を挙げられなかった。

果ては教育係であった一条兼良が、余りに無能なので見放した、というものまであります。

しかし、どうでしょう。史実の義尚は万余の兵を率いてその陣頭にたった勇将であり、和歌・絵画・書にも通じた文化人でもありました。

だからこそ都人たちは出陣する彼に手を合わせて見送り、その亡骸を前に涙を流したのではないでしょうか。ただ、惜しむらくは、天は彼に長生を与えなかったのです。

義尚の死後、室町将軍は、10代義植・11第義澄・12代義晴・13代義輝・14代義栄・15代義昭と続きます。

しかし、いずれの将軍も足利一門での将軍争いや大名たちの抗争などにより、京都を追われたり上洛に苦労したりと、もはや安定した政権維持は不可能でした。

こうした史実から、義尚の死により、日本が本格的な戦国時代に突入していったと考えても問題ないでしょう。

※参考文献
山田康弘著『足利将軍家たちの戦国乱世』中公新書 2023年9月
『歴史街道』令和2年7月号 PHP研究所

 

高野晃彰

高野晃彰

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高野晃彰(たかのてるあき)
編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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