はじめに
ウクライナ軍による反転攻勢が明らかになり、ロシアによるウクライナ侵攻は新しい局面をむかえています(2023年6月17日現在)。
多くのロシア兵の犠牲が明らかになるにつれて、プーチン大統領のリーダーシップを疑問視する声が日増しに大きくなっています。
なぜロシア(ソ連)のリーダーは独善的で、高圧的な人物が多いのか。
今回の記事では、ソ連の指導者であったスターリンについて考えていきたいと思います。
神を捨てたスターリン
画像:レーニン(左)とスターリン(右) public domain1878年、スターリンはロシア帝国の下で統治されていた、グルジア(現在はジョージア)で生まれました。
スターリンの写真を見ると分かりますが、彼の顔立ちはアジア人の特徴を持っています。その容姿が原因となり、いじめや差別に遭うことが多かったと言われています。
彼の家庭環境は過酷なものでした。貧しい家庭に生まれたスターリンは、アルコール依存症の父親からたびたび虐待を受けています。それでも母親は高い教育を受けさせることを望み、スターリンは神学校に通うことになりました。
青年期のスターリンは交通事故を2度経験しています。ただしこの交通事故は、自動車ではなく馬車によるものです。その事故の影響で左腕には後遺症が残り、スターリンは兵役を免除されました。厳しい人生を送るなかで、彼は神を信じることを次第に止めてしまいます。
スターリンとドストエフスキー
ドストエフスキーはトルストイやツルゲーネフと並ぶ、ロシアを代表する作家です。
『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』など、彼の文学作品は多くの思想家や文学者に影響を与えています。
村上春樹は無人島に一冊だけ持っていくなら、ドストエフスキーの作品を選ぶと言っています。
彼の作品に出てくる人々は貧困や家庭内暴力といった、悲惨な状況のなかで生活している人々ばかりです。いわば“神に見捨てられた人々”とも言えます。
ドストエフスキーは「人間が作り出した神によって人間が見捨てられてしまう」という壮絶な悲劇(パラドックス)を描いています。それでもドストエフスキーは、神の存在を信じることによって人間は救われると、自身の作品を通じて主張したのです。
スターリンは、ドストエフスキーとはまったく逆の結論に至りました。彼は神の存在を否定して無神論者となり、さらにはマルクス主義に傾倒するようになります。マルクスもまた宗教を否定しており「宗教は人々を麻痺させるアヘンである」と述べています。このマルクスの思想に深く影響を受けたのがスターリンでした。
神学校を退学したあと、スターリンはレーニンが率いるボリシェヴィキに加わり、ロシア革命に貢献しました。レーニンが亡くなると後継者争いが激化し、スターリンはトロツキーと激しく争います。
この争いに勝利したスターリンは、ソ連の最高指導者(書記長)となりました。
書記長になった彼の行動は、まるで自分自身が神になろうとしたかのようでした。幼少期からいじめや差別を受け、父親からの虐待を経験したスターリンは、猜疑心や人間不信の塊ともいえる人間になっていました。
彼は常に暗殺を恐れながらも、自分の存在を認めてほしいという願望から、ソ連の国民に対して個人崇拝を強制したのです。
「五カ年計画」
スターリンは強情な人間でもありました。自分が正しいと信じた政策を頑なに信じ、その結果として何千万人もの命が犠牲となっています。
彼が推進したソ連の工業化を目指す五カ年計画の結果、多くの人々が食料不足によって餓死しました。
1928年、独裁体制を固めたスターリンは「第一次五カ年計画」を開始しました。この計画の目的は、イギリスやドイツのような工業大国に追いつくことでした。
そのためには大量の資金が必要で、スターリンはその資金源としてウクライナの穀物に目をつけました。ウクライナは「ヨーロッパの食料庫」とも称されるほど農業が盛んで、特に小麦など穀物の収穫が多かったからです。
スターリンの計画はウクライナの穀物を海外に輸出し、その対価として外貨を獲得するというものでした。
スターリンはウクライナの農民が持つ土地を没収し、集団農場と国営農場での農業生産を強制します。集団農場は「コルホーズ」と呼ばれ、農民は自分たちの組合によって所有・運営される農場に所属し、ソ連からの賃金や食料の配給で生活していました。国営農場は「ソフホーズ」と呼ばれ、国家が直接に経営する農場になり、国家から給与を受けた人々が働いていました。
自分の土地や家畜を持っていた地主などは「富農」として悪者扱いされ、スターリンの命令によってシベリアやカザフスタンなどに強制移住させられました。
その犠牲者は300万人から600万人と言われています。
20世紀最大の人災である「ホロドモール」
穀物の生産量はソ連が計画したため、ウクライナの農民にとっては単なるノルマとなりました。農家は厳しいノルマを課され、それを達成できなければ、すべての食料がソ連によって持ち去られました。その結果として、ウクライナでは食料が極度に不足し、多くの人々が餓死したのです。
飢えをしのぐために、ペットや雑草、皮製の衣服を熱湯でふやかして食べることもありました。それでも飢えに耐えられず、病死した馬や人の死体を掘り起こして食べたとも言われています。街の至るところで死体が見かけられ、一日中死臭が漂っていたそうです。衛生状況も悪化し、感染症が蔓延しています。
海外輸出用に穀物を備蓄していた倉庫に、子どもたちが侵入して食料を盗んだ際に、スターリンは子どもたちを射殺するよう命じたと言われています。
ウクライナで発生した飢餓は「ホロドモール」と呼ばれ、スターリンによって引き起こされた人災でした。「ホロド」は「飢え」を「モール」は「絶滅」を意味します。正確な数字は分からないものの、400万人から1500万人が餓死したと言われています。
最後に
スターリンは自分の息子に対してさえ、愛情を持つことができなかったとされています。
第二次世界大戦中、彼の息子ヤーコフがナチス・ドイツ軍の捕虜となりました。ナチスはヤーコフの解放条件として身代金を要求しましたが、スターリンはこれを拒否。ヤーコフは拷問を受けた末に刑務所で亡くなりました。
第二次世界大戦後、世界は冷戦に突入。米ソ対立の緊張が高まるなか、1950年には朝鮮戦争が勃発します。その最中、スターリンは脳卒中を起こして死亡しました。
彼は毎日寝る部屋を変えており、どこで寝るのかは誰にも伝えていませんでした。あるときスターリンが何時になっても部屋から出てこないため、部下たちは心配しましたが、処刑を恐れて部屋に入ることができませんでした。夕方になって部下たちが緊張しながら部屋に入ると、床に倒れていたスターリンを発見します。
すでにもう手遅れの状態だったそうです。
歴史に悪名を残すスターリン。果たしてプーチン大統領には、どのような歴史的評価が下るのでしょうか。
※参考文献:
・村山秀太郎『これ1冊! 世界各国史』アーク出版、2019年10月
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