高師直とは
高師直(こうのもろなお)とは、足利尊氏の右腕として南北朝時代最強と呼ばれた武将である。
尊氏の右腕として鎌倉幕府を倒し、その後の戦では後醍醐天皇軍との「湊川の戦い」で、尊氏と共に新田義貞と楠木正成を破るなどの武功を挙げている。
南朝の名将・北畠顕家や楠木正行らを次々と倒し、南朝の吉野を制圧した室町幕府随一の最強武将であった。
その後、足利尊氏の弟・直義(ただよし)との対立から、武士たちの支持を失い、遂には一族滅亡の憂き目に会う。
「太平記」によると、師直は源氏の氏神が祀られている石清水八幡宮を焼き討ちし、仲間の妻を奪おうとする好色な極悪人として描かれている。
しかし最近では室町幕府の基礎設計をした功労者として、新たな光が当てられている。
今回は、南北朝最強武将・高師直は一体どこで何を間違ったのか、前編と後編にわたって掘り下げていきたい。
最強武将と大悪人
高氏は、源氏の祖先と言われる源義家の血を引く家系で、足利家のNo.2を代々務めていた一族だった。
高師直は、弟・師泰(もろやす・兄説も)と共に主君・足利尊氏の側近として鎌倉幕府倒幕戦争に参加し、建武の新政においては弟・師泰と共に窪所・雑訴決断所の奉公人に任じられた。
主君・尊氏が後醍醐天皇に離反すると、尊氏に従って鎌倉へ下向し、九州に逃た時にも尊氏に従い、建武3年(1336年)5月の「湊川の戦い」では、尊氏の補佐として猛将・楠木正成や新田義貞らを破った。
建武5年(1338年)尊氏が征夷大将軍に任じられ室町幕府を開くと、高師直は将軍家の執事として絶大な権勢を振るった。
高氏一族で侍所・恩賞方の要職を占め、河内・和泉・伊賀・尾張・三河・越後・武蔵など数か国の守護職を担ったのである。
南北朝時代になると、南朝方の最強武将・北畠顕家(きたばたけあきいえ)が奥州軍を率いて鎌倉を攻略し、更に大和に進み、都を伺う構えを見せた。
そこに立ちふさがったのが師直だった。
北畠軍を奈良般若坂で撃破したのである。
しかも師直はこの時、敵を討っても首を取らずに証人に確認させるだけで良いという「分捕切棄の法(ぶんどりきりすてのほう)」を採用した。
このおかげで兵は重い首を持ち歩く必要がなくなり、戦闘力を維持することができた。
そして遂に北畠顕家を討ち取り、北畠軍の別動隊が籠る石清水八幡宮も焼き討ちにした。しかし源氏の守り神を祀る八幡宮を焼いてしまったことで、師直は「神をも恐れぬ大悪人」として名を残すことになってしまう。
最有力武将を失った南朝側は、この後しばらく大きな攻勢をかけることができなくなった。
しかし師直が北畠顕家を討ち取ってから9年後、南朝側の楠木正成の息子・楠木正行(くすのきまさつら)が挙兵し、河内に侵攻した。
楠木正行との四條畷の戦い
幕府は2度に渡って追討軍を送るが、共に楠木軍に大敗を喫した。
楠木軍が目指すのは京の都であり、幕府は危機的状況となった。
ここで、討伐軍の総大将を任せられたのは師直であった。
師直は各地から軍勢を集め、「太平記」によれば8万とも言われる軍勢になったという。
そして、2万の軍勢を弟・師泰に託して堺浦に置き、自分は四條畷(しじょうなわ)に陣取った。これで、楠木軍がどこを通っても妨げるようにしたのだが、楠木正行は師直と決戦をするべく四條畷に向かって攻撃を仕掛けた。
両軍が激突したのは、山と湿地に挟まれた狭隘地であった。大軍を動かしにくいことから、兵力に劣る楠木軍は四條畷を決戦の場に選んだという。
猛攻を受けた師直の本陣は大混乱に陥るが、師直が用意させていた山に伏せていた別動隊が敵の背後を突いたことで形勢は逆転し、楠木軍はそのまま壊滅。
楠木正行は弟・正時、親族の和田新発たちと共に自害した。(※四條畷の戦い)
師直はわずか1日で南朝の名将・楠木正行を討ったのである。
勢いに乗った師直軍は大和の国の吉野に進撃し、南朝の本拠地であった行宮を焼き払った。
こうして南朝に勝利した師直は、最強の武将として幕府での存在感を高めることになった。
ここまで足利尊氏の右腕として、極めて優れた功績を残した師直だったが、この後、政務を担当する尊氏の弟・直義と激しい争いを繰り広げるようになる。
後編では有名な観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と、高師直の最後について解説する。
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