南北朝時代

そのひと手間で大違い!南北朝時代に活躍した楠木正成・正儀父子の人心掌握エピソード

よく社会人の心得として、「ほうれんそう(報連相。報告・連絡・相談)が大事」なんて教わりましたよね。

学校を出たての頃は、皆さんも上司や先輩に対して積極的な報・連・相を行なってきたと思います。しかし歳月を経て、いざ皆さん自身が先輩や上司になった時、部下や後輩からの報・連・相をどのように受けているでしょうか。

「あいよ、了解」ならまだいい方で、中には「ん」とか、無言でアゴを突き出す(書類ならそこに置いとけ。用が済んだらとっとと失せろ的な)なんて態度の方も少なくありません。

まぁ、ご多忙なのはわからなくもありません。しかし、部下や後輩とて血の通った人間です。自分がぞんざいに扱われたと感じて快く思う変態は、そう多くないでしょう(少なくとも筆者は「この野郎」の言葉を呑み込んだ記憶が千は超えています)。

そんな鬱屈したわだかまりが仕事にどう影響するのか、考えが至れば態度も変わりそうなものですが、まぁ無くならないってのはそういうことです。

人の上に立つ者として、ちょっと気づかいが出来るだけで職場環境が大きく改善されるのに……なんて思っていたであろう者が、南北朝時代にもいました。

(直接そう言った訳じゃなく、それを心得た上であろう行動をしていたという意味です)

今回は名将として活躍した楠木正成(くすのき まさしげ)とその三男・楠木正儀(まさのり)のエピソードを紹介したいと思います。

南北朝時代を代表する名将親子

楠木正成と言えば鎌倉時代末期、後醍醐天皇(ごだいごてんのう。第96代)に呼応して討幕の兵を挙げた悪党として有名です。

幕府の軍勢を翻弄する楠木正成ら。『大楠公一代絵巻』より

常識にとらわれない軍略を繰り出して敵の大軍を翻弄し、勝利に貢献。数々の武勲を立てるも、最期は滅びると分かっていながら湊川の合戦に臨み、壮絶な最期を遂げました。

……七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候へ……
(意:七回とも人間に生まれ変わり、朝敵を滅ぼすために戦いと思っている)

※『太平記』巻第十六「正成兄弟討死事」より

これは共に刺し違えた弟・楠木正季(まさすえ)のセリフ。これが「七生報国(しちしょうほうこく/七たび生まれ変わっても国に報いる=朝廷に忠義を尽くすこと)」の語源として現代に伝わります。

楠木正儀はそんな正成の三男として将器を受け継ぎ、京都を追われた南朝(後醍醐天皇の血統)に与して奮戦しました。北朝勢から京都を四度まで奪還する活躍を見せるも戦さは好まず、北朝との和平を望んだため主戦強硬派の長慶天皇(ちょうけいてんのう。第98代)と不和になって北朝へ投降。

それにより主力を失った南朝方は次第に和平へ傾き(というより正儀によって首都を攻略され)、明徳3年(1392年)10月27日に南北朝の和平を実現します。これによって南北朝時代は終焉を迎え、再び日本は一つになったのでした。

(ただし正儀当人は南北の和平を見ることなく、元中5・1388年ごろに亡くなっています)

正儀は長慶天皇と決別しているものの、それは日本国に平和をもたらす大義ゆえ。葛藤こそあったでしょうが、まさに報国の忠臣として執るべき道を選んだまでのことです。

以上ごくごくざっくりながら、楠木正成・正儀父子の生涯をたどってきました。それでは本題に移りましょう。

(余談ですが、楠木正成・正儀を主人公にした大河ドラマが実現して欲しいですね!)

たった数文字の違いだけど……

大活躍する楠木正儀。歌川国芳筆

……軍忠状・申状・着到状等の承認には、頗る簡単なる官文書式あり。上は主将より一部の長に至るまで、皆その様式に據れり。
例之、鎌倉以後に於ては 承了(判)・承候了(判)・知見了(判)・一見了(判)、若しくは単に(判)のみにして、殊に承了(判) は最も多く使用されし慣例たり。
然るに大楠氏のそれの如く鄭重なる書式を以て、承認奥書を加へたりしは、當時諸文書中、殆んど他にその類を見ざる特例たり。
○延元四年九月日附、伊勢官軍、潮田某の軍忠状に、「合戦之次第無相違候」の奥書あるを認む。
加之、その後正平七年六月、和泉国御家人淡輪彦太郎助重の提出せし軍忠状に、楠正儀これが承認奥書を添へ、自書して 加一見候畢(判)
○「和田文書」。同書、同年同月和田助氏の軍忠状にも正儀の同一加判の承認書あり。
とて、また一般者と稍々趣を異にせり○「淡輪文書」。……

※『楠氏研究』第十三章「大楠氏の性格とその修養」より
(※読みやすいよう、引用者により適宜改行しています)

合戦と聞くと、何はともあれ殺し合いの腕力勝負。事務手続きなんて脳裏の片隅もかすめない印象ですが、古今東西、軍隊と事務手続きは切っても切れない関係にあります。

例えば出欠確認や戦果の承認、何よりも恩賞を要求するための証拠など、とかく記録を残さねばどんな武功も「なかったこと」にされかねません。

だって恩賞は無限ではないのですから、味方同士で手柄の奪い合いになることは必至。少しでも実績を積み重ねて、誰より先に手柄≒恩賞を認めてもらおうとみんな必死なのです。

例えば「私はこんな任務をこなして、これだけ忠義を尽くし=手柄を立てました」という軍忠状(ぐんちゅうじょう)。あるいは「こまめに働き、逐一報・連・相を実践しました」

という申状(もうしじょう)。そもそも「ちゃんと動員に応じて、遅れることなくはせ参じました」という着到状(ちゃくとうじょう)……等々。

とかく枚数が多いため、受け付けする上官も承認作業に追われます。提出された書類をちゃんと確認したことを示すため定型文と花押(かおう。自筆のサイン)を記すのですが、その書式も次第に簡略化されていきました。

承了(判)………意:了承した(うけたまわりをはんぬ)
承候了(判)……意:承り候(そうろう)
知見了(判)……意:見知った
一見了(判)……意:一見した

※(判)は花押の意。

極めつけはただ花押だけという極めて素気な……もとい合理的な書式も少なくありませんでした。現代で言うなら、ひたすらハンコを連打している状態でしょうか。

「承了(判)」を殴り書き(イメージ)

まぁ、事務文書だから用さえ足りればそれでいいのですが、ちょっと味気ないですよね。あまり合理化に走り過ぎると、何となくギスギスしてくるものです。

そう思ったのか、楠木正成・正儀父子はひと手間を加えました。

合戦之次第無相違候(判)……合戦の次第、相違なく候。

これは延元4年(1339)9月、伊勢国(現:三重県)の潮田某(うしおだ なにがし)から提出された軍忠状へのコメント。

「此度の合戦は、確かに貴殿が申告通りの武勲を立てられた旨を証明します」

短いながら、何だか「よく頑張ってくれたな、感動したぞ!」という熱気が感じられるような気がしないでしょうか。他にも

加一見候畢(判)……一見を加え候(そうら)い畢(をはんぬ≒了)。

こちらは正平7年(1352年)6月、淡輪助重(たんなわ すけしげ)や和田助氏(わだ すけうじ)らの軍忠状に書かれた一文。

潮田某に対する時よりも慌ただしかったのか、より短いものの、少しでもねぎらいの気持ちを込めてあげたい意思を感じませんか?少なくとも「一見了」よりはよほど丁寧です。

たった二文字ですが、忙しい中でもちょっと書き加えてあげたい気持ちが伝わりますね。

もちろん塵も積もれば山となる……それでもちょっとひと手間かけてくれたと思えば、部下のパフォーマンスも違ってくるはずです。

終わりに

以上、楠木正成・正儀父子のエピソードを紹介してきました。

忠君愛国の名将として、現代も多くの日本人に愛される大楠公(正成の尊称)

どれほど大きな組織でも、それを構成するのは人間です。その一人ひとりをいかに活かし、パフォーマンスを引き出すかが成功のカギとなります。

名将たちの創意工夫とひと手間は、現代の私たちにとっても大きなヒントとなるかも知れませんね。

※参考文献:

  • 生駒孝臣『楠木正行・正儀 この楠は正成が子なり、正行が弟なり』ミネルヴァ書房、2021年5月
  • 藤田精一『楠氏研究』積善館、1938年5月

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