四川の悪魔
四川(しせん)といえば中国料理でお馴染みの四川料理や、三国志で有名な蜀(しょく)の地であり、日本人でも多少は聞き覚えのある土地です。
しかし17世紀の中国、この四川の地に君臨した一人の統治者の狂気について、知っている日本人はあまりいないと思われます。
その狂気に満ちた男の名前は、張献忠(ちょうけんちゅう)。
当時300万人近くいた四川の住民が、2万人ほどになるほど虐殺したと言われる恐るべき四川の統治者です。
一説によれば、張献忠が行った虐殺により古代四川人は消滅してしまい、四川人の方言が北京語に置き換わってしまったといわれるほど、苛烈なものであったと言います。
今回は、明朝末期の四川盆地に降り立った狂気の帝王・張献忠をご紹介します。
張献忠と当時の情勢
17世紀のはじめ中国明王朝の時代。長きに渡って栄華を誇った明王朝でしたが、宦官の跳梁や度重なる飢饉や災害のため、明王朝の衰退は誰の目にも明らかでした。
そのような情勢の中、1606年に張献忠は現在の陝西省(せんせいしょう)に誕生しました。その後、成人した張献忠はすぐに明朝の兵隊として徴用され軍籍となるのですが、気性が激しくすぐに問題を起こすため、軍を追い出されてしまい無法者となります。
しかし、1627年に陝西省で大飢饉が発生すると王嘉胤(おうかいん)という者が野盗を結成し、飢えた民衆を扇動して富豪の家を襲撃。1630年にはさらに多くの民衆を糾合して明王朝に対して反乱を開始します。
これを見た張献忠も地元の無法者を率いて王嘉胤の反乱に呼応し、各地を転戦しました。
1631年(崇禎4年)王嘉胤が部下の裏切りに合って戦死すると、部下の高迎祥(こうげいしょう)が反乱軍を掌握し、闖王(ちんおう)を自称します。
これを見た張献忠は高迎祥の軍に合流し、その配下となります。この時、後に張献忠のライバルとなる李自成も高迎祥の軍に参画していました。
李自成との派閥争い
張献忠、李自成といった有力な武将を配下に付けた高迎祥の軍は各地を転戦し、明軍を撃破していきます。一方、張献忠と李自成は次第に反目し合うようになり、高迎祥の軍内部は張献忠と李自成の二代派閥が形成されるようになります。
その後も反目し合う両者でしたが、次第に李自成の人気が張献忠を上回るようになったため、これを知った張献忠は激怒し、軍を率いて高迎祥の下を去ってしまいます。
張献忠を失った高迎祥の軍勢はかつての勢いを失い始め、1636年に明軍の攻撃を受けて高迎祥は戦死してしまいました。軍を受け継いだ李自成は明軍と戦いますが、敗北してしまったため、一旦山野に身を隠さざるを得なくなります。
一方、李自成と袂を分けた張献忠の軍は南下し、長江領域である湖南・江西方面に進出し勢力を拡大していました。
しかし、李自成を撃破した明軍は軍勢を南に向かわせ、名将で女傑と名高い秦良玉(しんりょうぎょく)に張献忠討伐を命じます。
張献忠は秦良玉と戦うも敗北してしまい危機に陥りますが、明朝の上層部に賄賂を贈り、偽装降伏を成功させます。
偽装工作を成功させた張献忠は軍備を整えると、1639年(崇禎12年)に再び明軍に反旗を翻し、四川省との境界付近を転戦。
1643年には武昌を陥落させ、自らを大西王と称しました。
四川入蜀と疑心に陥る張献忠
大西王となった張献忠はますます勢いに乗り、1644年に60万の大軍を称して四川省に進撃を開始。これを阻まんとする秦良玉の軍を撃破すると、そのまま四川へと雪崩れ込みました。
8月、四川の州都である成都を占領した張献忠は自らを大西皇帝と称し、国号を「大順」とし成都を「西京」と改めると、明朝の残存勢力も併呑し、明朝の官制に擬した官僚組織を取り入れ、国家運営を始めます。
こうして一大勢力を築いた張献忠でしたが、中原の地は大きく情勢が変化していました。
かつて張献忠と争った李自成はこの時北京を占領しており、中原の覇者として君臨するはずだったのですが、満洲女真族の国家「清」が北京に総攻撃を仕掛けたため、李自成の政権はわずか40日で滅亡。清軍は中華の大半を占領したのです。
清の勢いを恐れた張献忠は1645年、中原と四川を繋ぐ重要拠点である漢中を手に入れるべく軍を出撃させますが、強兵を誇る清軍によって何度も撃退されてしまいます。
自軍の惨状を見た張献忠は次第に不安に駆られ、周りの者に厳しく接するようなります。
また、四川の民衆に対して軍費として重税を課すようになったため、反乱が続発するようになると、張献忠はますます人間不信に陥り、逆らうものは容赦なく殺害するようになったのです。
屠蜀 四川大虐殺の凶行
もはや天下を取るのは不可能と悟った張献忠の異常性は、さらに拍車が掛かっていきました。
清代に成立した書物「蜀碧」によると
張献忠は天下が他の者に治められるのを恐れた。そして、四川の住民を皆殺しにする決意を固めた。彼は部下に対し人狩りを命じ、一人一日100人のノルマを課した。それを達成した者は昇進させるという方式を採用したので、これによって兵士たちは嬉々として人狩りを敢行し、中には一兵卒から将校になった者もいた。また蜀にいた官僚たちを一列に並べて、犬が匂いを嗅いだ者から順に処刑をしていった。
張献忠は、以下のような拷問を行ったとされています。
匏奴(ほうど) – 手足切断する。
辺地(へんち、邊地) – 背筋で真二つに斬る。
雪鰍(せっしゅう) – 空中で背中を槍で突き通す。
貫戯(かんぎ、貫戲) – 子供たちを火の城で囲んで炙り殺す。
張献忠はそれでも一向に満足せず、高らかにこう宣言したのです。
「四川の人間はまだ死に尽くしておらぬのか…。俺が手にいれたのだから、俺が滅ぼしてしまうのだ。ただのひとりでも他人のために残しておきはせぬぞ..!」
張献忠の虐殺は「屠蜀(屠川)」と呼ばれるほど凄まじいものであり、約300万にいた四川の人口は2万人を割るほど激減したと言います。また、この虐殺により古代から四川に住む人々は消滅してしまったため、四川の言語から文化が消え去ってしまったとされています。
しかし、一説によれば「蜀碧」は清代に成立した書物であるため、清国側が四川制圧の大義名分のため張献忠の悪行を誇張しているという見方もあり、後の中国の文豪である魯迅も懐疑的な意見を表しています。
とは言え、当時張献忠に仕えていたイエズス会の宣教師ガブリエル・デ・マガリャンイスや、成都の大慈寺における大虐殺の生存者であると欧陽直が著した『欧陽氏遺書』によれば、虐殺は事実のようにも思われます。
実際、宣教師のマガリャンイスは、以下のようにイエズス会に報告しています。
「暴君はすぐさま、あの大きく、人口の多い都市(成都)を元々住んでいた人達のいない無人の孤立した状態に変えてしまった。まわりを囲むように流れていた河は朱く染められ、あたかも水ではなく血のようであった。その上、死体で満ちていたので、海に注ぐ、とても水量の多い河にもかかわらず、何日にもわたって航行することが不可能だった。河に隣接した都市や町はこのような残虐ぶりに恐れおののき、その理由を理解することができなかった。」
さらに…
「暴君は自分の全ての軍隊を率いて出発し、大人も子供も、少年も老人も殺した。彼は都市や町や村を焼き尽くし、その結果、全てが灰燼に帰し、唯の一軒も残らなかった。それから一年後、我々がタタール人と一緒に戻ってきたとき、四川省の多くの土地を歩いてみたところ、そこはかつて人が居住していた土地ではなく、すでに野生の森林であり、人間というより虎や他の猛獣の棲家がふさわしいように思われた。」
張献忠にまつわるエピソード
狂気に陥った張献忠の凄まじい逸話は、数多く残っています。
ある日、張献忠は何もすることがなかったので、側近に妻子を呼ぶように命じた。側近の妻子らは張献忠のもとを訪れるも、張献忠の兵士によって皆殺しにされた。翌日、何もなかったかのように張献忠は側近に妻子らを再び呼ぶように命じるも、側近から「陛下の命により昨日殺しました」と告げられると、激怒してその側近らも皆殺しにした。
ある時、大順が行った登用試験の科挙から容姿端麗で優秀な合格者が出た。張献忠は彼を気に入り、様々な贈り物をした。そしてある日、側近に命じた。「余はあいつが愛おしい。一目見ただけで、可愛くてたまらなくなる。世はあいつと会うのが怖くなる。おまえたち、余のためにあいつを早く片付けくれ」そう命じると科挙の合格者とその一族は皆殺しにされた。
張献忠は宴会が好きだったので、連日彼の友人を宴会に呼んだ。また張献忠は友人にお土産をたくさん与えたので、友人たちは張献忠を恐れなかった。しかし、ある晩宴会が終わり友人らが帰路に着くと、彼らは張献忠の兵士に捕らわれ皆殺しにされた。友人らの首が張献忠の下に届けられると、張献忠はその生首を大切に保管した。宴会を行う際は、その生首を並べて一人上機嫌にその首に酌をしたり、愉快に語りかけていた。
また、三国志で有名な蜀の軍師・諸葛亮が、張献忠の虐殺を予想していたという逸話が残っています。
成都の門外に一つの塔があった。この塔は明代初期に布政使である余一龍が修理したものだった。その後、張献忠の軍が蜀に乱入した際にこの塔は破壊された。その跡地を調べたところ大きな石碑が出てきてこう書かれていた。「塔は余一龍によって修理され、張献忠によって破壊されるであろう。歳は甲乙丙に逢い、この地は流血で真っ赤に染まるであろう。妖運は河の北に終わり毒気は川の東に及ぶ。簫(しょう)を吹くに竹を用いず、一箭(いっせん)が胸を貫かん。漢の元興元年、丞相諸葛孔明記す」
最後に
四川の人間を殺し尽くした張献忠は家畜に至るまで殺し尽くしました。四川の地は無人の荒野と化し、町や村も廃墟と化したのです。
残虐の限りを尽くした張献忠でしたが、もはや大順は国家としての機能を失っており、滅亡は誰の目にも明らかでした。
張献忠が四川を治めてから2年後の1646年。清国が四川に侵攻を開始したため、張献忠は西京を放棄し、700人の部下と共に脱出します。
しかし、途中で清の太宗・ホンタイジの長男・ホージ率いる軍勢に捕捉されてしまい、張献忠は交戦中に射殺されてしまいました。(享年41)
西京を離れた時に700人ほどだった大西軍は、この時わずか25人にまで減っていたといいます。
清軍が張献忠の体を割いて調べたところ、彼の心臓は漆黒な色をしており、肝臓はなかったといわれています。
明末の狂気に落ちた一人の群雄の生涯をご紹介しました。
>宦官の跳躍や
揚げ足取りのようで凝縮ですが、「宦官の跳梁(跋扈)」でしょうか?
跳躍ですと宦官がそこかしこで、ぴょんぴょん跳び跳ねて明が傾いた事になってしまいます。
ご指摘誠にありがとうございます!
修正させていただきました!