生い立ち
野口男三郎(のぐち おさぶろう ※旧姓・武林、1880年生まれ)は、大阪府大阪市西区新町で衡器(重量をはかる器具)製造を行っている家の三男として誕生した。
その後、市内の英語学校・高等英学校(現・桃山学院)に進学し、明治30年(1897)春頃に上京した。上京後は麹町区紀尾井町(現・千代田区)に在住する動物学者・石川千代松宅に寄宿した。
男三郎は機知に富んだ人物で、周囲の人々から好かれ信用されていたという。そして寄宿先の近所に住む著名な漢詩人・野口寧斎(のぐち ねいさい)の実妹・ソエと恋仲になった。
明治32年(1899)9月頃、男三郎は東京外国語学校露語学科(現・東京外国語大学)に入学し、ソエとの交際も重ね、明治34年(1901)頃から野口寧斎宅で同居を始めたとされている。
男三郎は寧斎宅での同居はなんとか認められたものの、寧斎からは信用されておらず良好な関係ではなかった。また寧斎は、当時不治の病といわれたハンセン病を患っており、自身の父親も同じ病で亡くなっていた。
男三郎は寧斎の病を知ると、ソエへの感染を防ぐため、寧斎との関係を円満にするために病の治療法を探し始めた。
そして「ハンセン病には人肉が有効だ」という俗信を信じ、近くに住む子供を殺して人肉を手に入れることを決めたとされる。
臀肉(でんにく)事件
明治35年(1902)3月27日午後9時頃、麹町区下二町に住む河合荘亮(11)は、母親と一緒に湯屋から家に帰る途中、砂糖を買うために母親と別れた。
そして午後10時頃、男三郎は、砂糖を購入して帰る途中の荘亮を見つけるとその背後から近づき、荘亮の顔を自身の身体に圧迫して窒息死させた。
その後、男三郎は所持していた洋刀で荘亮の左右の臀部から長さ約18センチ、幅約13センチ程の筋肉組織を剥ぎ取り、さらに自身の手指で荘亮の両眼球を抉り取った後、その場から離れた。
29日には京橋区金六町(現・中央区)の商店で陶製の鍋と坩堝を購入して、木挽町の貸ボート屋から手漕ぎ船を借りた。そして浜離宮付近の海上で、木炭で火を起こし臀肉を煮てそのエキスを抽出した後、残った部分や鍋などは海中に捨てたとされる。
家へ戻る途中、男三郎は赤坂区一ツ木町(現・港区)の商店で鶏肉のスープを購入した。そしてそのスープと臀肉エキスを混ぜ合わせ、さらに味を調整したそのスープを寧斎とソエに飲ませたのだった。
この臀肉事件は、警察が捜査をしたものの目撃証言がなく、容疑者の手がかりを見つけることが出来なかった。
証書偽造
男三郎は東京外国語学校の学生であったが、在学中の各年度の試験で不合格だったため、明治35年(1902)9月頃に退学になった。
しかし、ソエと結婚したいために「在学中である」と詐称した。
そして明治36年(1903)の7月~8月頃に、東京外国語学校の卒業証書を印刷する印刷所から卒業証書用紙を入手し、当時の学校長名義の7月6日付露語学科卒業証書、独語学科修了証書、経済学修了証書を偽造した。
その後、偽造したこれらの書類を野口寧斎宅に持ち帰り、寧斎に提示し、さらに自身の実家に送付した。
翌年の7月に内縁関係の妻・ソエは長女を出産したが、男三郎は無職の状態であった。
12月頃には、男三郎は寧斎との間に交わしたソエとの婚前契約のことや、男三郎の就職のことなどで寧斎と争論になり、耐えられなくなった男三郎は野口家を飛び出してしまう。
野口寧斎 殺害事件
明治38年(1905)5月、男三郎は知人宅を転々としながらソエとの復縁を望んでいた。
しかし、ソエからの言伝で、ソエと長女が寧斎の下で行動を制限され自由に出来なくなっていることや、今後、男三郎が家族と生活していくことは難しい状況にあるということを伝えられた。
そこで男三郎は寧斎を殺害することを決めて、麹町区三番町の薬店で硝酸ストリキニーネを購入し、それをソエに薬だと伝えて渡し、寧斎に飲ませようとしたが失敗した。
その後、男三郎は5月12日午前1時頃、就寝している寧斎の寝室に侵入し、寧斎の胸部を圧迫して窒息死させたとされる。しかし、寧斎の明確な死因はわかっていないという。
寧斎は病を患っていたこともあり、また他に不審な点がなかったことから、この寧斎の死は「急死」とされたのだった。
薬店店主 殺害事件
寧斎の死後、男三郎はソエとの復縁をソエの親戚に求めたが、認めてもらうことは出来なかった。
男三郎は復縁を認めてもらうため、野口家に対して「自分は満州において通訳官に任命された」と偽り、実際に満州に向かおうとした。
男三郎はその旅費を獲得するため、「ある軍人が戦地から持ち帰った金塊があり、それを購入すれば必ず利益がある」という架空の投資話で金策に走ったのだった。
そしてこの架空の投資話を、男三郎と面識のある薬店店主・都築富五郎に持ちかけ、金銭を騙し取ろうと考えたのである。
明治38年(1905)5月24日午後3時頃、男三郎からの投資話に乗り気であった都築は、自身の銀行口座から預金350円を引き出した。そして午後6時頃、男三郎と共に電車に乗って移動した。
東京府豊多摩郡代々幡村代々木(現・渋谷区)の徳大寺邸の近くを移動している途中で、突然、男三郎は都築の頸部を圧迫して窒息死させた。そして男三郎は都築が自殺をしたように装い、金を奪って逃走したのだった。
その後、都築の縊死体が発見されたのだが、麹町警察署は都築の死因に不審を抱いた。そして警察の調べで都築の薬店に度々出入りしていた野口男三郎が怪しいとされ、男三郎は飯田町駅でついに逮捕された。
その後、警察の調べで、男三郎が臀肉事件の犯人ではないかということや、寧斎殺害の疑いも浮上したのだった。
判決
男三郎は、東京地方裁判所における最終審理の結果、第一の殺人事件「臀肉事件」、及び第二の殺人事件「野口寧斎殺害事件」の2件については証拠不十分として無罪になった。
そして第三の殺人事件「薬店店主・都築富五郎殺害事件」の1件の強盗殺人、及び余罪の「卒業証書偽造」については有罪になった。
臀肉事件及び、寧斎殺しが無罪になった理由は、男三郎の取り調べにおいて警察による拷問が行われ、「早く逃れたい」という思いと、「ソエに対する取り調べを1日も早く終わらせて自由にさせたい」という思いから、嘘の自白をしたためだったとされている。
そして、男三郎の弁護をした有名な弁護士・花井卓蔵の功績が大きかったとされる。
しかし、第三の殺人事件で死刑宣告を受け、明治41年(1908)7月、東京監獄で野口男三郎の死刑が執行された。(享年28歳)
参考 明治以降大事件の真相と判例 国立国会図書館デジタルコレクション
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