イスラエル(パレスチナ)の泥沼化は避けられないか
緊迫する中東(イスラエル)情勢を受けて、イスラエルとパレスチナが対立する起源を歴史的に考察する企画です。
前回の記事では「イスラーム教が生まれた歴史的背景」「ムハンマドの誕生」についてお伝えしました。
7世紀、アラビア半島が交易路の迂回ルートになったことで、アラビア人のあいだで貧富の差が拡大します。
貧しさに苦しむ人々が現世からの救いを求めた背景から、イスラーム教は誕生しました。
2023年10月12日現在、イスラエルはハマスの攻撃を受けて、ガザ地区への地上軍導入を模索している状況です。
イスラエル軍がガザ地区に侵攻した場合、周辺のイスラーム諸国がどのような反発を見せるのか、一部報道ではレバノンの武装組織・ヒズボラの参戦も指摘されており、地獄ような状況に発展する可能性があります。
今回の記事では「アラビア半島でイスラーム教が急速に広まった理由」「ムハンマドの死後にイスラーム社会が直面した課題」について解説したいと思います。
ムハンマドの苦難
ムハンマドがメッカで一神教(イスラーム教)を伝え始めると、多神教を守っていたメッカの住民から強い反発が生まれました。
メッカのクライシュ族はカーバ神殿がもたらす利益を重要視しており、ムハンマドの教えは一族の収入に悪影響をもたらすためです。
その結果、ムハンマドはメッカの市民から激しく敵視されるようになります。
石を投げられたり、動物の死体を家に投げ入れられたり、さらには毒を盛られるなど、彼の命に危険が及ぶ事態となりました。
ムハンマドを支えていた親族も次々と亡くなり、ついには本人も生命の危機にされらされます。
622年、危険を感じたムハンマドはメッカを離れ、メディナへと向かいました
聖遷とメディナ移住
メッカを脱出したムハンマドは、なんとかメディナに逃れました。
このムハンマドの、メッカからメディナへの脱出を「聖遷(ヒジュラ)」といいます。
聖遷は決して平穏な移住ではなく、メッカの人々はムハンマドの行方を追って兵を差し向けたため、命からがらの逃避行でした。
ムハンマドらは途中で洞窟に隠れるなどして、何とかメディナに辿り着いたのです。
ムハンマドは「教団国家(ウンマ)」を建設。
「聖遷の日(西暦622年7月16日」をイスラーム暦元年と定め、イスラーム教団の本拠地としたのです。
こうしてアラビア全土へ、イスラームの伝播が始まりました。
イスラーム教団の組織力
ムハンマドが唱えたイスラーム教団が、短期間のうちにアラビア半島の大部分を支配下に治めることができた背景には、教団が持つ組織力の強さがありました。
ムハンマドは「神の言葉を伝える預言者」を名乗り、絶対的な指導者としての地位を確立します。
教団の信者たちは彼の命令に全面的に従い、団結力の高い組織となりました。
また信者に対して「イスラームのために戦って死ぬことは、楽園行きを保証する」と、ムハンマドは明言しています。
信者たちは異常なほどの宗教的情熱に突き動かされ、命知らずの兵となりました。
この指導者ムハンマドに対する絶対的忠誠心と、信者の宗教的情熱がイスラーム教団が持つ強さの源泉であり、イスラーム教の急速な勢力拡大を可能にしたのです。
アラビア半島の統一
アラビア半島には数多くの部族が割拠しており、部族間では領地や水資源をめぐる対立が絶え間なく繰り広げられていました。
ところがイスラームの台頭によってアラビア半島が初めて統一されると、半島全域が一つの政治体制下に置かれたことで、部族の自治は失われます。
イスラームによる中央集権的な統治によって部族の自立性が制限され、抗争が抑制されることとなりました。
部族はイスラーム共同体の一員として位置づけられ、遊牧から定住への転換が進み、部族の活動範囲が縮小しました。
これらの要因によって部族間の対立構造が解消され、イスラーム時代には部族間の大規模な抗争はほとんど起こらなくなったのです。
貧富の差の解消
イスラーム教が示す教義(五行)のひとつに「喜捨(ザカート)」があり、これは富裕層に対して資産の一定額を貧困層に施すことを義務付けています。
ザカートによって富の再分配が行われるため、貧富の差が緩和されます。ムハンマド自身もザカートを積極的に実践し、その模範を示しました。
イスラーム共同体では互助の精神が重視され、共同体の安定が最優先されたため、極端な貧富の差は好ましくないとされています。イスラーム法では最低限の生活を保証する方針も取られました。
このようにイスラームの理念と制度によって、貧富の差の是正が推進されたのです。
ムハンマドの死と教団の危機
しかしイスラーム教の拡大は、ムハンマドの死によって大きなピンチを迎えます。
イスラーム教団はムハンマドのカリスマ的な指導力に大きく依存しており、ムハンマドが死去したことで教団には大きな混乱が生じました。
教義や方針を決定する権威が不明確になったためです。
後継者をめぐって信者間で対立が起こり、イスラーム教団は動揺します。
その隙を狙って、アラビア半島の部族は再び自治を求めて反乱を起こしたため、一時は教団の存続自体が危ぶまれる事態にも直面しています。
カリスマ的指導者であるムハンマドを失ったことが、イスラーム教団を瀬戸際に追いやる結果となったのです。
反乱鎮圧とカリフ制の成立
ムハンマドの死後、イスラーム教団は大きな苦難に直面しました。
しかし、各地の反乱を鎮圧することで逆に組織の結束力が高まり、この危機を乗り越えていきます。
初代カリフのアブー・バクルは、四分五裂していたアラビア半島の再統一を成し遂げます。
「カリフ」はイスラーム教団の最高指導者であり、またムハンマドの「後継者」を意味します。
しかしながら、2代目カリフであるウマルの時代になると、半島統一後に「用済み」となった軍隊の処遇が課題となりました。
カリフは軍隊を維持するために対外膨張戦争を開始しましたが、国内の矛盾を外征で隠そうとするこの方針は、やがて自壊へと追い込むことになるのです。
次回の記事では、拡大を続けるイスラーム帝国についてお伝えします。
参考文献:神野正史(2020)『「覇権」で読み解けば世界史がわかる』祥伝社
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