三国志には名場面が多いが、花形なのは「一騎打ち」であろう。
特に、三国志演義においては趙雲が一騎打ちを大量に行っており、まさに英雄といった描かれ方をしている。
しかし、三国志演義はあくまでフィクションであり、正史の三国志ではどうなっているのだろうか。
ちなみに、火縄銃が存在した1500年代の日本では、一騎打ちは全くといっていいぐらいなかった。
今回は、正史三国志における一騎打ち情報をいろいろとまとめていこう。
三国志演義の一騎打ちについて
三国志演義では、張飛vs馬超や、関羽vs黄忠といった一騎打ちのシーンは非常に多い、その中でも有名なのが趙雲であり、三国志演義上では33回も一騎打ちを行っており、負けたのは姜維相手の1回だけとなっている。
仮に一騎打ちランキングをつけるのなら、呂布と並ぶほどの猛者である。
しかし、これが正史三国志になると話が変わってくる。
正史三国志においては、趙雲の一騎打ちはなんとゼロなのである。
正史三国志における一騎打ちはどれだけあったか
正史三国志で、明確に一騎打ちの記述があるのは以下の3つだけだ。
呂布 vs 郭汜
馬超 vs 閻行
孫策 vs 太史慈
関羽 vs 顔良も非常に有名であるが、これは関羽側の不意打ちに近く、しかも一撃で終わっているので今回は省いている。
正史三国志における一騎打ちを掘り下げる
それでは3つの一騎打ち、『呂布vs郭汜』『馬超vs閻行』『孫策vs太史慈』を掘り下げていこう。
○呂布 vs 郭汜
参考資料:『魏書呂布伝』における『英雄記』
発生時期:192年
一騎打ち発生までの経緯:呂布が董卓を暗殺後、董卓の配下だった李傕と郭汜を筆頭に涼州軍が長安になだれ込んできた。圧倒的不利になった呂布が城の北に居た郭汜を見つけて一騎打ちをしかけ、郭汜がそれを受けた。
一騎打ちの結果:呂布の圧勝、ただし郭汜は死なず。
一騎打ち後の情勢:郭汜を討ち取る寸前までいったが、郭汜の仲間に邪魔されて討ち取ることができず、結局呂布軍は敗北し長安を奪われる。呂布軍はそのまま東に逃亡して中原をさまようことになる。
董卓vs反董卓連合の戦い後の話である。
三国志演義における、司徒の王允が貂蝉を用いて離間の計を行った後と言えばわかりやすいかもしれない。
一騎打ちは発生したようだが、呂布側が圧勝したようだ。
相手の郭汜は敗れたものの、死には至らなかったようである。
○馬超 vs 閻行
参考資料:『三国志』『魏書』『張既伝』
発生時期:190年代(馬超が若い頃との記載から推測)
一騎打ち発生までの経緯: 馬超の父親である馬騰と韓遂が対立、戦争状態になったことで馬超と韓遂の部下である閻行が相まみえた。
一騎打ちの結果:閻行の勝利、馬超の負けで討ち取られる寸前までいった。
一騎打ち後の情勢:閻行は馬超を矛で刺して落馬させ、折れた柄で頸動脈を締めて馬超を討ち取る直前まで行った。しかし、馬騰の救援が来たために断念することになる。その後は曹操が華北を平定し、韓遂が曹操の下へ閻行を派遣したことから、以降相まみえることはなかった。
ここで登場する閻行(えんこう)という人物は、猛将として知られる馬超を打ち負かしている。
しかしこの閻行は、三国志演義には登場しないのである。
フィクションである演技では活躍せずに、正史で活躍した人物なのだ。
ちなみに、ゲームにおけるここ最近の「三国志」は正史の人物も取り入れることが多く、閻行は三国志14に登場している。(※武力84)
○孫策 vs 太史慈
参考資料:『呉書太史慈伝』
発生時期:195年
一騎打ち発生までの経緯:独立のために動いていた孫策は、揚州を支配するために劉繇の土地を狙っていた。そのとき韓当や黄蓋ら13騎を従えた孫策と、劉繇の客将であり1人で偵察していた太史慈がたまたまばったりと出会った。
一騎打ちの結果:互角、まだまだこれからという時に両軍の騎兵が殺到したため、両者引き下がる。
一騎打ち後の情勢:劉繇はその後、孫策に敗れ、太史慈は劉繇に義理を立てて孫策軍と戦い続ける。しかし、孫策は戦上手で最終的に太史慈は捕えられるが、一騎打ちのこともあり気に入られて仲間となる。
正史三国志における本格的な一騎打ちを取り上げるとしたら、この孫策 vs 太史慈だろう。
2人は互いの正体がわからない状態での遭遇戦となっている。
太史慈は劉繇の配下だったと言われるが、しばらく留まっていただけの客将という説もあり、いずれにせよ独立勢力の長という立場だった。
つまり、互いに独立勢力の長という立場で、トップ同士が正面から本気で戦った一騎打ちということになる。
これは中国史上でもなかなか見ないレアケースであり、非常に重要な一騎打ちと言えるだろう。
参考 : 『魏書呂布伝 英雄記』『三国志』『魏書』『張既伝』
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