NHK「ブギウギ」で、草彅剛さん演じる羽鳥善一のモデルである、作曲家の服部良一さん。
『東京ブギウギ』の大ヒットで笠置シヅ子を一躍スターへと押し上げた彼は、「和製ジャズの創始者」と言われています。
そんな服部さんとジャズの出会いは、当時人気のあった社交場「ダンスホール」でした。
新しい音楽・ジャズを日本に浸透させた「ダンスホール」とは、どのような場所だったのでしょうか?
世界中に広まるジャズ
第一次世界大戦後、ヨーロッパが衰退の一途をたどる中、世界の流行をリードしたのがアメリカでした。
1920~30年代のアメリカは、『シング・シング・シング』で有名なベニー・グッドマンを初めとするダンスミュージックとしてのジャズが隆盛の時代。
それまで人気だったワルツに代わって、アメリカ生まれのジャズがダンスミュージックの主流となり、ジャズは世界へと広まります。
日本に上陸したジャズは、東京・横浜・大阪・神戸を中心に人々に受け入れられていき、その立役者となったのが「ダンスホール」でした。
日本初の常設ダンスホール「花月園舞踏場」
日本初の常設ダンスホールは、1920年(大正9年)に開場した「花月園舞踏場」です。
神奈川県の遊園地・花月園に建設された民間ダンスホールでした。
それまで日本の社交ダンスは、鹿鳴館、帝国ホテル、海浜ホテル(鎌倉)、グランド・ホテル(横浜)などで上流階級の教養の一つとして行われており、ダンスホールは特権階級の社交場でした。
「花月園舞踏場」は、社交ダンスを一般庶民に開放したダンスホール文化の先駆けといえます。
ダンスホールには専属のジャズバンドとタンゴバンド、ダンサーがおり、客は入場料を払って社交ダンスを踊りました。
借金で縛られていたダンサーたち
初期のダンスホールは女性客が少なく、男性同士がペアで踊ることもあり、女性客不足の解消にダンサーが雇われました。
彼女たちの平均年齢は、22、3歳。最先端のイブニングドレスを身にまとった華やかなモダンガールで、有名ダンスホールの看板ダンサーは、ダンステクニック、容貌、サービスどれをとっても一流でした。
ダンスホールはチケット制で、1曲のチケットが昼は10銭、夜は20銭ほど。
客は入口で10枚つづりのチケットを買い、バンドが最新のジャズを演奏するホールへと入っていきます。
フロアを挟んで客席と向かい合わせの席に座るダンサーたちは、前月の売り上げによって席次が決められていました。
中央には、いわゆる「ナンバーワン」ダンサーが座ります。
客はどのダンサーを指名するか品定めし、曲の前奏が流れると、お気に入りのダンサーにチケット1枚を渡して申し込み踊るシステムでした。
人気のダンサーは複数の客から同時に申し込まれることもあり、その場合はダンサーが客を選びました。
チケットの歩合は、ホール六分、ダンサー四分。ダンサーの月収は7、80円くらいで、売れっ子ともなれば、月に200円くらいを稼いでいたといいます。
ちなみに昭和5年の大卒初任給は、約70円です。
当時のアイドルのような存在だったダンサーですが、ほとんどが借金で縛られ、身動きの取れない生活を送っていました。
そのためパトロンを持つダンサーも多かったようです。
道頓堀にダンスホールが登場
1923年(大正12年)、関東大震災によって壊滅状態となった東京から、経済の中心は大阪へとシフトします。
関東から大阪への移住者が増えるなか、羽振りの良い人々や文化人が求めたのが、東京と同じような歓楽街でした。
大阪商人がそうした商機を逃すはずもなく、震災直後、難波新地で「コテージ・ダンスホール」がオープンします。
それまで白系ロシア人のホステスが、狭いダンスフロアーで酔客相手に社交ダンスを踊っていたようなカフェーに、東京から移住した羽振りの良い文化人や商人などが続々と訪れるようになると、店主は早々に店をダンスホールに改装。とても繁盛しました。
コテージが盛況だという情報が伝わると、我も我もと道頓堀や千日前に「パウリスタ」「ユニオン」「赤玉」などのダンスホールが誕生します。
3年のあいだに市内にできたダンスホールは20カ所。ジャズの舞台は、東京から大阪へと変わりました。
これらのホールでは、はじめはレコードで音楽を流していましたが、やがて東京から流れて来たジャズバンドたちが登場し、大阪でジャズ・ブームが起こります。
服部良一も道頓堀のダンスホールでジャズバンドに参加し、ジャズ・プレイヤー、アレンジャーとして腕を磨いています。
ダンスホール全盛の時代
当初は大阪の方が盛んだったダンスホールですが、1927年(昭和2年)、風紀上の理由から府当局が営業を全面禁止。
大阪に移ったバンドマンたちが復興とともに東京に戻ったこともあり、1930年(昭和5年)頃から東京はダンスホール全盛の時代を迎えます。
しかし「若い男女が寄り添って踊るダンスは風紀を乱す」として厳しい規制が次々と行われ、1935年(昭和10年)には東京で営業を許されたダンスホールは8件だけでした。
当時、赤坂溜池にあったダンスホール『フロリダ』は、ホールの設備もバンドも超一流でした。
チケットも高額で、外国人向けに背が高くスマートな美人ダンサーをそろえ、客層は諸外国の外交官や華族、海軍士官、俳優、音楽家、画家、文士などでした。
特にバンドの演奏の良し悪しがダンスホールの売り上げを左右するといわれ、熟練のバンドマンは一流のダンスホールで演奏しました。
お揃いのタキシードに身を包んだバンドマンはダンサーたちの憧れで、舞台や映画で有名になった『上海バンスキング』では、この時代のバンドマンが描かれています。
終焉を迎えるダンスホール
1940年(昭和15年)7月7日、重苦しい戦時体制の到来を告げる「奢侈品等製造販売制限規則」(通称「七・七禁令」)が施行されます。
『ぜいたくは敵だ』のスローガンのもと、歓楽を控え節約に励むことが通告され、ダンスホールも廃止の対象となりました。
同年10月31日、ダンスホールはすべて閉鎖されました。終焉の夜、平和な時代の名残を惜しむたくさんの人が詰めかけ、ダンスホールはどこも満員だったということです。
参考文献:小針侑起『遊郭・花柳界・ダンスホール・カフェーの近代史』.河出書房新社
欧州文化研究会ウイーンクラブを主催してます。欧米諸国の文化研究とノーブルなウイーンの舞踏会を広める活動をしてます。
ウイーンでは今でも、一冬に400以上も社交ダンスパーティが開催されます。本物のオペラハウスや宮殿をまるごと貸し切りの大規模な催しです。 風俗営業として発展した日本とちがって、宮廷舞踏会の名残なので芸術的・文化性の高い催しなんです。 日本は基本男尊女卑の国です。だから男性の快楽のための文化しか発展しなかったのです。
しかし、ようやく2016年に風俗から外されました。もうキャバレーダンスではないんですよ。しかし社会的な偏見や差別がなくなったわけではありません。そんあわけで 文化的・芸術性の高いウイーンの舞踏会を広める活動をしてます。
ウイーンには、「警察官舞踏会」があります。文字通りこれは「ウイーン市警」が主催する舞踏会です。
いかがわしいものとして、取締りの対象だった日本とは文化がちがいますよね。現在でも毎年ウイーン市庁舎・ラーテハウスで開催されてます。