幕末明治

「日本女性初のアメリカ大学卒業生」 大山捨松の生涯 ~鹿鳴館の華

大山捨松とは

大山捨松の生涯

大山捨松。(影山智洋蔵)

大山捨松(おおやますてまつ)とは、新五千円札の顔となる津田梅子と共に、明治4年(1871年)に岩倉使節団50人ほどの留学生が同行する中、たった5人だけが選ばれた女子留学生の1人である。

この時、捨松はまだ11歳で盟友となる津田梅子はわずか6歳であった。

とても優秀であった捨松は日本人女性として初めてアメリカの大学を卒業する快挙を成し遂げたが、11年間の留学を終えて帰国した時には、目的であった北海道開拓を担当していた官庁そのものが消滅していた。

帰国後、アメリカ生活とのギャップによって日本の水に馴染めなかった捨松は女子の高等教育機関を作りたいという夢を抱いていたが、残念ながら断念せざるを得なくなる。
そんな時、陸軍卿である大山巌に見初められた捨松は、鹿鳴館で社交界デビューし「鹿鳴館の華」として輝くこととなる。

今回は明治という時代に挑んだ鹿鳴館の華・大山捨松の生涯について解説する。

出自

大山捨松は安政7年(1860年)会津藩の国家老・山川重固の2男5女の末娘として生まれたが、生まれた時にはすでに父・重固は亡くなっていた。
幼名は「さき」で後に「咲子」となり、アメリカ留学の際に「捨松」となった。

ここでは一般的に知られる「捨松」と記させていただく。

母・えんは「唐衣」の雅号を持つ会津藩屈指の歌人として有名であり、とても厳格な人柄なため子供たちに軍記物を読み聞かせ、懐剣もすぐ抜けるように袋を短めにしていたという女性であった。

慶応4年(1868年)8月、会津戦争が勃発。

大山捨松の生涯

官軍の砲弾を浴びて激しく損傷した会津若松城

新政府軍が会津若松城に迫ると数え8歳の「さき(捨松)」は家族と共に城に籠城し、弾薬の運搬や着弾した弾に濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」というとても危険な作業をしたという。※幼少であった捨松には重たいものを持ち上げられないので、やっていないという説もある。

籠城中に食事をしている部屋に着弾し、義理の姉・トセが大やけどで死亡し、捨松も首を負傷している。

会津若松城攻撃の際に新政府軍の砲兵隊長を務めていたのが、後に夫となる薩摩藩出身の大山弥助(後の巌)であったが、彼は初日に負傷し会津若松にいたのは2日のみであったという。

会津藩は降伏し、改易となって陸奥斗南藩3万石に封じられたが、この間に祖父が亡くなり長兄・が藩の重臣となった。
しかし3万石とされた斗南藩は不毛の地で、実際には7,000石足らずしかなかった。

飢えと寒さで命を落とす者が出ることから末娘・さき(捨松)は函館のクリスチャン・沢辺琢磨のもとに里子に出され、その紹介でフランス人の家庭に引き取ってもらうことになったという。※捨松の息子・大山柏は、時期は不明だが捨松はアメリカ人宣教師に預けられていたこともあると語っている。

アメリカ留学

大山捨松の生涯

黒田清隆, 1840 – 1900

アメリカ視察旅行から帰国した北海道開拓使の次官・黒田清隆は、数人の若者をアメリカに留学生として送り、未開の地を開拓する技術や方法など開拓に必要な知識を学ばせることにした。

黒田はアメリカで女性が男性と同じように荒野を開拓し汗を流している姿に感激し、留学生の募集は「男女」若干名という例のないものになった。
黒田のこの計画はやがて政府主導の10年間の官費留学という大掛かりなものとなり、この年に出発する岩倉使節団に随行して渡米することに決定したのである。

この留学生に選抜されたのが、さき(捨松)の兄・山川健次郎であった。※山川は初めてカレーライスを食べた日本人として紹介される事が多い人物

戊辰戦争で賊軍となった東北諸藩の上級士族の中には、この官費留学を名誉挽回の好機とする者もいたが、女子を10年間という長い期間異国へ送り出すなど考えられない時代であったため、女子の応募者は皆無であったという。

しかし、さき(捨松)は利発でフランス人家庭での生活を通じて西洋式の生活習慣に慣れていた。
それに加えて兄・健次郎を頼りに出来るだろうという目論見もあり、山川家では女子留学生の再募集に11歳になっていた捨松を応募させることにしたのである。

この時の女子の応募者は5名で、全員が旧幕臣や賊軍の娘であった。

母・えんは懐剣を渡し「今生では二度と会えるとは思っていないが、捨てたつもりでお前の帰りを待っている」と述べ「捨松」と改名させた。

渡米生活

大山捨松の生涯

新政府の米国留学女学生。左から、永井しげ (10)、上田てい (16)、吉益りょう (16)、津田うめ (9)、山川捨松 (12)。明治4年(1871年)

こうして渡米した5人の女子留学生であったが、すでに思春期を過ぎていた年長の2人(吉益亮子と上田悌子)は病気を理由にその年のうちに帰国してしまう。
捨松(11歳)、永井繁子(10歳)、津田梅子(6歳)の3人は、異文化の生活の中でも無理なく順応していった。

この3人は親友・盟友として交流を続け、後に日本の女子教育の発展に寄与していくことになる。

捨松はアメリカに渡っていた兄・健次郎の知人の仲介で、コネチカット州ニューヘブンの牧師レオナード・ベーコン宅に寄宿し4年間を過ごし、キリスト教の洗礼も受け英語に慣れ親しんだ。
レオナード・ベーコンの娘であるアリス・ベーコンとは、生涯に渡る親友になったという。

捨松がいたニューヘブンという町は教育や文化レベルが高い場所で、捨松はのびのびと自分の個性を磨いていった。
学力もアメリカ人同級生に負けずに優秀で、スポーツも良く出来たという。

19歳になった捨松は、ニューヨーク州のヴァサー・カレッジという女子大学に永井繁子と共に進学する。

繁子は音楽を学ぶ特別生として在籍したが卒業には至らず、帰国後にピアノの奏者・演奏家として活躍する。
捨松はヴァサー・カレッジで寮生活送りながら、ラテン語・哲学・数学・物理・歴史・動物学など様々な分野を学び、2年生の時にはクラス委員長も務めた。

侍の娘」として人気者であったという。

大山捨松の生涯

ヴァッサー大学1882年度卒業写真、4列目の左から5番目が山川捨松

成績が良く学年3位で卒業し、卒業論文を元にした英語での講演はニューヨーク・タイムズや地元新聞でも高く評価されたという。

当初予定されていた留学期間10年間を1年過ぎていたが特別に延長が許可され、日本人女性として初めてアメリカ大学を卒業するという快挙を成し遂げたのである。

帰国後

明治15年(1882年)11月22日、11年間の留学生活から帰国した捨松は、生理学や体操を教えたいという希望を持っていたが、捨松を待っていたのは失望以外の何ものでもなかった。

実は北海道開拓使はこの年の2月に廃止され、東京女学校も明治10年に廃止されるなど、日本政府の女性教育に対する動きは著しく鈍くなっていたのである。
捨松ら帰国した女子留学生3人には政府からの連絡はなく、帰国した捨松も日本語が相当怪しくなっていた。
日常会話は数か月でなんとかなったが、漢字の読み書きとなるとお手上げ状態であった。

そんな捨松の受け皿となるような職場は日本にはまだなく、捨松が出来た仕事は上流階級の令嬢の個人教授ぐらいであった。
またこの頃、娘は10代で嫁に出す時代であり、23歳になっていた捨松は当時の女性としてはすでに「婚期を逃した」年齢となっていた。

2歳下の永井繁子は早々に海軍の瓜生外吉と結婚し、捨松も英語学者の神田乃武から縁談の申し出を受けたがそれを断ってしまう。

この頃、親友のアリス・ベーコンに「20歳を過ぎたばかりなのにもう売れ残り」という手紙を送っている。

大山巌と結婚

大山捨松の生涯

大山巌(日露戦争後)

ちょうどその頃、妻を亡くし後妻を捜していたのが参議陸軍卿・伯爵であった大山巌(おおやまいわお)であった。

大山は3人の娘をもうけていたが三女出産後に妻が死去、姉の有馬國子に娘の世話を任せていたが「女性に学問はいらない」という姉との教育方針の違いに悩んでいた。

当時の日本陸軍はフランス兵式制からドイツ兵式制への過渡期という難しい時期で、フランス語やドイツ語を流暢に話す大山は、列強の外交官や武官たちとの談判にあたることの出来る最適の人材であった。そしてこの時期の外交で大きな部分を占めていたのは、夫人同伴の夜会や舞踏会であった。

独身であった大山にとって、アメリカの名門大学を成績優秀で卒業し、フランス語やドイツ語にも堪能だった捨松は夫人として最適な女性であったのである。
大山の亡くなった妻の父である吉井友実が捨松に着目し、吉井のお膳立てで大山と捨松は初めて会い、大山は一目で恋に落ちたという。

しかし、吉井を通じて大山からの縁談の申し入れを受けた捨松の長兄・は、仇敵・薩摩人との縁談が旧会津藩士に与える悪印象を恐れた。
また、上司にあたる大山との縁談が「出世のために妹を差し出した」と思われることを危惧し、即座に縁談を断ってしまった。

大山側は一度は断られたものの、大山巌はあの西郷隆盛の従兄弟であり、今度は西郷隆盛の弟の西郷従道が山川家を訪れて、徹夜で説得にあたったという。

兄・浩の「山川家は賊軍の家臣ゆえ」という逃げ口上に対し、西郷従道は「自分も逆賊(西郷隆盛)の身内だ」と言って返し、連日の説得に断りきれなくなった浩は、捨松本人の意思を聞くことにした。

そして捨松は「閣下(大山)のお人柄を知らないうちはお返事も出来ません」とデートを提案し、大山もこれに応じた。

捨松は大山の薩摩弁がさっぱり分からず、大山も捨松の片言の会津弁を理解出来なかったが、フランス語で話し始めると会話が弾んだという。
2人には親子ほどの年の差があったが、デートを重ねていくうちに捨松は大山の心の広さと茶目っ気のある人柄に惹かれていった。

交際を始めて3か月で捨松は大山との結婚を決意し、明治16年(1883年)11月8日、完成したばかりの鹿鳴館で盛大な結婚披露宴が行われた。

鹿鳴館の華

大山捨松の生涯

鹿鳴館

早期条約改正を目指していた明治政府にとって、列強の外交官が夫人同伴で食事や舞踏会を楽しみ、時にはそのような席で重要な外交上の駆け引きを行っていたことが衝撃的であった。

日本の外交官や女性たちがそういった立ち振る舞いにまったく慣れていないことを危惧し、社交場として建設されたのが鹿鳴館であった。

鹿鳴館では連日のように夜会や舞踏会が開かれ、諸外国の外交官や明治政府の高官たちもパイプを構築するため夜な夜な宴に加わった。
日本が文明国であることを示す涙ぐましい努力であったが「鹿鳴館外交」の評判は必ずしも良いものではなかった。
体格に合わない燕尾服を着て、ぎこちないダンスに臨む政府高官とその妻たちの姿は、諸外国の外交官や妻たちには滑稽に映っていたのである。

そんな中で1人、まるで水を得た魚のように生き生きとしていたのが捨松であった。
捨松は英語・フランス語・ドイツ語を駆使し、時には冗談を織り交ぜながら諸外国の外交官たちと談笑した。

大山捨松の生涯

鹿鳴館時代の捨松

12歳の時から身につけていた社交ダンスのステップはとても堂に入ったもので、当時の日本女性としては長身で、センスの良いドレスの着こなしも素晴らしいものであった。

そんな伯爵夫人・捨松のことを人は「鹿鳴館の華」と呼んで感嘆するようになったのである。

慈善活動

ある時、有志公立東京病院を見学した捨松はそこに看護婦の姿がなく、病人の世話は雑用係の男性数名であることに衝撃を受ける。

そこで院長に自らの経験を語り、患者のため、女性のための職場を開拓するためにも日本に看護婦養成学校の必要性を説いた。
院長も看護婦の必要性は早くから認めていたのだが、いかんせん財政難で実施することが出来なかったのである。

そして捨松は明治17年(1884年)6月12日から3日間に渡って日本初のチャリティーバザー「鹿鳴館慈善会」を開いた。
捨松は政府高官の妻たちの陣頭指揮をとり、3日間で予想を大幅に上回る収益を上げ、その全額(当時の金額で1万6,000円)を有志共立東京病院に寄付して院長を感激させた。

この資金を基に2年後には日本初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所が設立された。
捨松は寄付金集めや婦人会活動に加え、自らも看護婦資格を取っている。

明治20年(1887年)には、日本赤十字社の立ち上げにおいて「日本赤十字篤志婦人会」の発起人となった。

日清・日露戦争では満州軍総司令官の夫・大山の妻として日本赤十字社で戦傷者の看護もこなし、政府高官の婦人たちを動員して包帯作りなどの活動も行った。

アメリカの赤十字にも寄付金を送る傍ら、積極的にアメリカの新聞に日本が置かれた立場や苦しい財政事情を投稿した。
するとアメリカ人はヴァサー・カレッジを卒業した捨松の投稿を好意的に受け止め、アメリカの世論が親日的になり、アメリカで集まった義援金はアリス・ベーコンによって直ちに捨松のもとに送金され、様々な慈善活動に活用されたのである。

女子教育

帰国後には日本の女子教育の先駆者となるのが夢であった捨松だが、政府の要職にある大山巌の妻となったことで、自身が教段に立つことはあり得なくなってしまった。

しかし捨松の女子教育にかける熱意は冷めることはなく、結婚翌年の明治17年(1884年)、伊藤博文の依頼により下田歌子と共に華族女学校(後の学習院女子中・高等科)の設立準備委員になり、津田梅子やアリス・ベーコンを教師として招聘し、その整備に大きく貢献している。

しかし華族女学校では古式ゆかしい儒教的な道徳観に乗っ取った教育が行われ、捨松は失望を味わってしまう。

大山捨松の生涯

左から、津田梅子、アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松

明治33年(1900年)、津田梅子が女子英学塾(後の津田塾大学)を設立することになると、捨松は瓜生繁子と共に全面的に支援をした。
アリス・ベーコンを再度日本に招聘し、今度は自分たちの手で自分たちが理想とする学校を設立したのである。

今回は教育方針に第三者からの横槍を入れさせないために金銭的援助を拒んだため、捨松も繁子もアリスもボランティアとして参加した。
捨松は学校資金募集の委員会会長を務め、梅子が渡米中には校長代理として卒業証書を渡すなど積極的に塾の運営に関与した。

生涯独身でパトロンがいなかった津田梅子が民間の女子英学塾で成功出来たのは、捨松らの多大な支援があったからである。

家庭と晩年

結婚後、大山と捨松の間には2男1女に恵まれ、先妻の3人の娘を含めた6人の子供を育てる主婦としても捨松は多忙な毎日を送っていた。
捨松は大山家の資産管理も行い、巌が知らない間に広大な邸宅を手に入れていたという。

巌は日清戦争後に元帥・侯爵、日露戦争後には元老・公爵となったが、政治には興味を示さず、何度も総理候補に推されても断っていた。
晩年は第一線を退いて内大臣として宮中にまわり、時間のある時は那須で家族団欒を楽しんだ。

大山捨松の生涯

晩年の大山夫妻

その後、長男・が事故で亡くなり、次男のが大山家の後継者となった。

大正5年(1916年)嫡孫・が誕生したが、巌は体調を崩し療養生活に入り、同年12月に75歳で死去した。
巌の葬儀は国葬となったが、捨松はその後ほとんど公の場には姿を見せず、大山家の資産運用などに専念した。

大正8年(1919年)津田梅子が病に倒れて女子英学塾が混乱すると、捨松は先頭に立ってその運営を取り仕切った。
梅子が病気療養を理由に退任を決め捨松は後任を指名したが、その時、風邪気味の体を押して後任のもとに依頼に出たことがたたり、当時流行していたスペイン風邪にかかってしまう。

捨松は、新塾長の就任を見届けた翌日に倒れてしまい、同年2月17日に58歳でその生涯を閉じた。

おわりに

大山捨松は、日本女性で初のアメリカ大学を卒業した貴重な人物だが、帰国後の彼女には活躍の場がないという苦難が待っていた。

その後、政府高官の大山巌と結婚した彼女は「鹿鳴館」においてふさわしい活躍の場を得た。

明治という時代を駆け抜けた女性の先駆者として、チャリティーバザーなどの企画やボランティア活動の草分けとなった女性であり、日本の女子教育の発展に大きく寄与した人物であった。

 

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コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 3月 22日 10:57am

    明治新政府は10年以上も渡米させていたのに、その3人の女性が帰国後に仕事を用意していない点が、男尊女卑を語る上で男女格差を思いしり、彼女たちは当時失意のどん底だったのだろう?

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  2. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 6月 07日 8:16pm

    鹿鳴館の華と呼ばれた女性はまだいたはず?写真付きで当時の美人妻を教えてください。

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  3. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 7月 22日 8:27pm

    山川咲子(大山捨松)の生涯は、ノンフィクションとしてもっと喧伝されて良い。
    その足跡は素晴らしいものがあったし、その精神は見上げたものだと思います。

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