徳川家綱とは
徳川家綱(とくがわいえつな)は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の嫡男として生まれた「お坊ちゃま・箱入り息子」である。
幼くして4代将軍になってからは、幕閣たちの言いなりで「左様せい」と言うばかりなので「左様せい将軍」「左様せい様」と揶揄されていたという。
しかし、本当に家綱は幕閣たちの言いなりの駄目な将軍だったのだろうか?
家綱の治世では、幕府転覆を狙った「由井正雪の乱」や、江戸の6割を焼き尽くした「明暦の大火」など大事件が起きている。
幕府の屋台骨を揺るがす危機に、将軍・家綱はどう対処したのか。
今回は「影の薄い将軍」と呼ばれた徳川家綱について掘り下げていきたい。
家綱誕生
3代将軍の徳川家光には、なかなか世継ぎが生まれなかった。
それは家光が、公家の娘である正室と不仲であったからである。
しかも家光が興味を持ったのは女性よりも男性だった。
家光は男色で、寵愛する小姓が3人もいたという。
このままでは徳川家康・秀忠・家光と続く血筋が途絶えてしまうと焦ったのが、家光の乳母である春日局であった。
春日局は、家光に女性に目を向けて欲しいと大奥を作り、美女を集めて来ては家光に近づけた。
その中の1人に、春日局が浅草へ行った帰りに見つけた古着屋の娘・お楽という女性がいた。
お楽は大奥に入ると、家光の側室となり懐妊したのである。
寛永18年(1641年)8月3日に、お楽は家光の長男を産んだ。
その待望の男子が幼名「竹千代」、後に4代将軍となる家綱だった。
ようやく生まれた男子・竹千代(家綱)だったが、とても病弱で将来に不安を見せたという。
その後、家光は次男・亀松と三男・長松、そして四男・徳松、五男・鶴松と立て続けに男子を授かったが、竹千代は正保元年(1644年)12月にから家綱と名を改め、翌年の4月にはわずか5歳で元服となった。
生まれながらの将軍
家綱は正三位に任じられると、西の丸に移り次期将軍として育てられた。
家光は、家綱が生まれた時から自らの後継ぎに決めていたという。
それは家光自身が弟・忠長との、世継ぎ争いがあったからである。
家光は家康が決めた「長子相続」を守り、自分の時のような後継者争いが起きないように、早々に「嫡男である家綱が次期将軍である」と周囲に知らしめたのだ。
家光の期待に、家綱は応えていった。
家綱は6歳の時に、側に仕える家臣から遠島になった罪人の話を聞いて、「彼らは何を食べているのだろう?」という疑問を抱いた。
当時、流罪人には決まった食料の配給は無く、餓死する者がとても多かった。
近臣たちに尋ねた家綱だったが、誰も答えられなかった。
家綱は「流罪に処して命を助けたにも関わらず、何故食料を与えないのか?」と問うたという。
我が子の利発な発言に感心した家光は「確かに遠島にして命を助けたならば食料の世話もするべきであるな。今後は流罪人に対しても一定の食料を与えよ」と家臣に命じた。
家光はこの命令を、家綱の最初の施策とするように申し付けたという。
将軍となるべく順調に育った家綱だったが、11歳になった慶安4年(1651年)父・家光が48歳で亡くなってしまう。
家光は息を引き取る前に、異母弟の会津藩主・保科正之を呼んで「世継ぎの家綱の後見を頼む」と告げた。
重責を任された保科正之は、家光の死後、徳川一門の大名たちに対して「万が一、幼君であることをこれ幸いに怪しい動きをする者があれば我々に告げよ。即座に踏み潰し御代始めのご祝儀にしてくれよう」と釘を刺した。
将軍就任
そして、家光の死から4か月後の8月18日、家綱は江戸城で将軍宣下を受け、4代将軍に就任した。
家光までは京都で将軍宣下を受けていたが、家綱は幼少でしかも病弱であったことから上洛はしなかった。
それから15代・慶喜を除く将軍宣下は、京都ではなく江戸で行われるようになった。
家光の時代には公武関係において将軍権力の優位性が確立しており、敢えて大部隊を率いて上洛する軍事的な示威行動は必要なくなっていたという背景もある。
11歳で将軍に就任した家綱だったが、将軍として強い自覚を持っており「吾幼年なりといえども、先業を承け継ぎ、大位に居れり」と言ったという。
幕閣には「知恵伊豆」と呼ばれた切れ者の老中・松平信綱、酒井忠次の孫の老中・酒井忠勝、井伊直政の次男で幕府宿老筆頭格の井伊直孝、そして後見には名君・会津藩主の保科正之と、父・家光が残した優秀な家臣たちが補佐することで、盤石な政ができると思われた。
由井正雪の乱
そのような時に、幕府転覆を狙うクーデター計画「由井正雪の乱」が発覚する。
首謀者の由井正雪は、軍学者の中でも突出した人物で「万人に優れた化け物」と呼ばれた男である。
江戸幕府は開府以降、武家諸法度の制定や参勤交代の制度化などによって武士たちを統制していた。
更に、武家諸法度に反した大名や後継者がいない大名などを次々と改易や減封するなど、大名たちを押さえつける武断政治を断行していた。
改易によって浪人たちが江戸に溢れ、浪人たちの不満は蓄積していた。そうした状況に立ち上がったのが正雪だった。
「苦しむ浪人たちを救済しなければならない。それには今の公儀(幕府)では駄目だ。我々で新たな政を行なう」と考えた正雪は、まだ政権が安定していない今が好機と、幼い家綱を拉致し、幕府を乗っ取るクーデターを計画したのである。
正雪は、クーデター計画を実行するために7月22日未明に江戸から駿府に向けて出発した。しかし幕府の密偵から報告を受けた信綱は、7月23日に正雪の片腕である丸橋忠弥たちを江戸で捕縛した。
計画が露見していることを知らない正雪は、7月25日に駿府に到着した。
梅屋町の町年寄・梅屋太郎右衛門の宿に宿泊したが、翌日の26日早朝に駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれて、正雪は自害した。
大坂の実行責任者だった金井半兵衛も正雪の死を知って自害し、このクーデター計画は未遂に終わったのである。
しかしその1年後に、浪人で軍学者の別木庄左衛門らが老中たちを殺そうと計画していることが発覚し(承応の変)、これも密告によって未遂で終わった。
この未遂に終わったクーデター計画によって、幕府は由井正雪が望んだ「浪人が発生しない方向」へと動き出した。
保科正之が主導して、改易を少しでも減らすために末期養子の禁止を緩和し、各藩に浪人の採用を奨励し、武断政治から法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになった。
明暦の大火
家綱の治世で最大の危機と言われたのが「明暦の大火」である。
明暦3年(1657年)1月18日から20日までの3日間に、江戸の町は6割が焼失し10万人以上もの死者が出た。
この時、家綱は17歳であった。
将軍のお膝元・江戸は壊滅状態に陥り、父・家光が建造した江戸城の天守も焼失してしまった。
将軍・家綱をどこに避難させるかと幕閣たちは議論し、松平信綱は「上野寛永寺への避難」を提案し、酒井忠勝と井伊直孝は「江戸城の外に避難」を提案した。
後見の保科正之は「本丸が燃えたら西の丸に移ればよい。もし西の丸が焼けたら本丸の焼け跡に陣屋を建てればよい。4代将軍が火事で江戸城から逃げ出したとなれば、折角築き上げた徳川将軍の権威が地に落ちてしまう」と提案した。
議論の末に保科正之の案が通り、家綱は西の丸に移り江戸城に留まった。
江戸の町の被害は大名屋敷160、旗本屋敷770、町屋800、寺社350、橋60、倉庫9,000が焼失した。
町の復興が急務となったが、家綱や幕閣たちにはもう一つ大きな問題があった。
それは焼失した江戸城天守の再建であった。
しかし、後見の保科正之は「天守はもはや無用の長物、天守の再建に充てる費用を困っている民たちのため、町の復興に使うべきである」と主張した。
この保科正之の意見に、家綱は反対しなかった。
何故なら家綱は、天守よりも民衆たちの方が大切だと分かっていたからである。
こうして幕府は、火災対策として大名屋敷を城から離れた場所に移転し、町の道の幅を拡げて火除地として広小路を作った。さらに川を渡れずに焼け死んだ人が続出したため、橋の増設にも取りかかった。
備蓄米も放出して食料の配給を実施、材木や米の価格を統制し、武士・町人を問わない復興資金援助を行った。
将軍・家綱が江戸の町の復興を優先したことで、その後200年余りも続く江戸の町の基礎が築かれたのである。
家綱の性格と功績
家綱は、釣りや絵を好む温厚な性格であったという。
父・家光の意向は踏まえつつも、病弱であったことから優秀な幕閣たちに政治を任せ、意見を聞かれると「左様せい」と答えていたので「左様せい将軍、左様せい様」と揶揄された。
そのため、政治に対する意欲や指導力に欠ける印象だが、優秀な家臣たちの議論をよく聞いて主体的に政務には携わっていた。
実は江戸幕府の全国支配が本格化したのは、家綱が幕閣たちの合議制を認め、迅速に判断を下していたためであった。
有能な家臣たちを信頼し、彼らの意見を受け入れる大きな懐を持っていたのである。
こんな逸話がある。
家綱は老中・酒井忠勝に「庭にある大きな石を撤去するように」と命じた。
それは、竹刀を振るなど剣術の稽古の邪魔になるとの理由だった。
すると忠勝は「石を外へ出すには土塁や塀を壊さなくてはならないため、ご勘弁して下さい」と答えた。
そして松平信綱は「土を掘って石を埋めてはどうか」と提案した。
これに対して忠勝は「石は放っておいても何か害をなす訳ではない。政治の理は、できないことをできないとはっきりと諭すことが大切である。若い天下人が万事思い通りになると暴君となり、民をないがしろにすることは必定である」と説いた。
信綱は感服してこれ以上は何も言わず、家綱は忠勝の意見を受け入れた。
もしこれが直情的な性格だった父・家光であれば、家臣の進言を受け入れず、忠勝を成敗や処分していたかもしれない。
家光の時代、幕府内は殺伐とした雰囲気であったというが、温厚な家綱の治世になると一変し、家臣たちを押さえつける政は行われなかった。
そのため、家臣たちは自由に意見が言えるようになり、幕府内は自然と活性化していった。
家綱は、家臣たちと共に武断政治から文治政治へと政を改めていったのである。
殉死の禁止
寛文3年(1663年)23歳になった家綱は、殉死を禁止した。
殉死とは亡くなった主君を追って、家臣などが後を追って死ぬことである。
江戸時代になると戦国時代のように戦死することが少なくなったが、主君が病死などで自然死した場合でも家臣が忠誠心を示すために殉死することがあり、殉死は武士の美徳とされていた。
家綱は殉死によって優秀な人材が失われることを防ぎ「家臣は主君個人に仕えるのではなく、主君の家に仕えるべきである」という新しい時代の主従関係を示したのだ。
大名証人制の廃止
寛文5年(1665年)家綱は、大名証人制を廃止した。
大名証人制とは、諸大名が徳川将軍家に反旗を翻すのを抑止するための制度で、大名やその重臣の妻子などを人質として江戸に住まわせることであり、その人質が証人である。
しかし「幕藩体制が安定した今では必要ない」という保科正之の提言を受け入れて、家綱は廃止を決定した。
家綱が決定した「末期養子禁止の緩和」「殉死の禁止」「大名証人制の廃止」は、三大美事と言われている。
世継ぎ問題
家綱の治世の後半になると、寛永の遺老たちは次々と死去、または老齢になり表舞台から隠退し、寛文6年(1666年)酒井忠清が大老に就任し幕政を掌握した。
家綱は、正室の伏見浅宮顕子と側室にも子どもがなかった。さらに家綱自身生まれつき線が細く病弱であったために、30代半ばを過ぎる頃には世継ぎ問題が憂慮された。
延宝8年(1680年)5月初旬、家綱は病に倒れて危篤状態になってしまう。
大老の酒井忠清は、有栖川宮幸仁親王を次期将軍に擁立しようとしたが反対され、老中の堀田正俊が勧めた異母弟の館林藩主・松平綱吉を家綱の養子に迎えて、将軍の嫡子とした。
これまで、将軍の後継ぎは直系の長男と決まっていたが、4代家綱をもって直系嫡子による世襲は崩れてしまった。
そして家綱は、綱吉を養子に迎えた2日後の5月8日に死去した。享年40だった。
おわりに
わずか11歳で将軍を務めた徳川家綱の治世は、28年9か月にも及んだ。
年を重ねるうちに指導力を発揮し、武断政治から文治政治への変革を実行した。
徳川政権が260年もの長きに渡って続いたのは4代将軍・家綱の変革を恐れない柔軟性と、優れた家臣たちに任せることができる懐の深さ、そして穏やかな人柄があったからで、家綱は目立たないだけで決して駄目な将軍ではなかったのである。
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