紫式部とは
紫式部は生没年不詳、本名不詳の平安時代の作家であり、百人一首の57番にも選ばれている歌人です。
さらには宮中に仕える女官でもありました。
宮中では藤式部(とうのしきぶ、或いはふじしきぶ)と呼ばれていたようで、後に紫式部と呼ばれるようになったといいますが、これらはあくまでも女官としての呼び名で本名ではありません。
光源氏を主人公とした平安時代の恋愛物語「源氏物語」の作者として広く知られています。
父親は下級貴族であった藤原為時、母親は藤原為信女と伝わっています。
藤原為時は977年に東宮・師貞親王の御読書始において、「副侍読」という天皇の側に仕えて学問を教授する立場にあり、歌人・漢詩人でもある人物でした。
紫式部は幼少の頃より漢文を読みこなし、才女としての逸話が多く、その才覚を藤原道長に見いだされ道長の娘である中宮・彰子に仕えました。
道長が源倫子と結婚した際に、倫子付きの女房として宮中に出仕したともいわれています。
平安時代とは
平安時代は、794年に桓武天皇が平城京から現在の京都府京都市に都を移してから、1185年に鎌倉幕府が成立するまでの約390年間のことをいいます。平安時代という呼び方は、平城京から遷都された平安京が政治の中心であったことからこう呼ばれるようになりました。
日本史の上では古代期から中世への過渡期にあたり、古代期にいれるか中世にいれるかは意見が分かれています。
政治の基本は奈良時代の中央集権的な律令制度であり部分的には修正が行われましたが、藤原氏による荘園の拡大をうけ、律令制の基本であった人別支配を改め土地に対して課税が行われるようになりました。
このように政治方針を転換したことにより、それぞれの土地で有力な者に権限を譲渡し、筆頭国司がそれを統括するという体制が構築されました。
この王朝国家体制に移行したことにより、政治の中心であった朝廷は実質的に地方の統治を放棄しました。
武士の誕生と武士政権
その頃、桓武天皇が律令制の中で軍事を行っていた軍団を廃止したため、地方では治安が悪化し無政府状態になりました。
治安が悪化したことにより、地方の有力な百姓は自衛のために武装するようになり、また、武に秀でた軍事貴族や下級官人たちも武装して台頭し、こうして武士が誕生します。
一方、今まで権力が集中していた中央では特定の稼業を担う家系での世襲制が広まり、位が高い上級貴族たちによる摂関家が確立、中流貴族は家業の専門技能によって公務を行い、地方では地方に赴き行政責任を負う受領が行政を行いました。
これにより荘園と公領による勢力の二分化が進み、貴族社会内でのもめごとが武力によって解決されるようになります。
そして武士の地位が上昇し、最初の武家政権である平氏政権が誕生しました。
その後、全国に内乱が拡大し平氏政権は崩壊しますが、代わって東国の内乱を治めた源氏が鎌倉幕府を成立させたことにより平安時代は終わりを迎えます。
平安時代は、貴族中心の政治から武士の時代への過渡期となった時代と言えるでしょう。
平安時代の女性の地位ついて
この頃の女性の生活は、それぞれの生まれた家系によって全く違うものでした。
皇族においては、天皇を継ぐのは男子であり、母方の親族は外戚と認識され、桓武天皇が父系継承を強化すると政治的に力を行使することができない女性の地位は低くなっていきました。
しかし、天皇の母・国母になると政治的発言力も強く、摂関政治においては天皇の外戚として政治にも大きな影響力がありました。
それでも男性天皇中心となった政治の場においては相対的にみると女性の立場は低下しており、入内した貴族の娘たちは天皇の寵愛を受けるために教養を身に着け、華やかに着飾り才能に富む女房を集めるようになりました。
このような中で「源氏物語」は誕生したのです。
貴族においては、女性が官職につき俸禄を得ることで家を支える者も多く、経済的に自立していました。
当初、婚姻形態や居住形態にも明確な決まり事はなく、のちに長女が婿をとるようになり次女等は実家から支援を受けて独立居住するようになりました。
一夫多妻制で同居している妻や子たちは同等に扱われていましたが、子供が夫の官職などを引き継ぐようになると次第に格差は広がっていきます。女性も俸禄を得ていたとはいえ、中央で男性優位が進むにつれ女官の地位は低下し、男性との経済格差も広がっていきました。
平安時代後期には、荘園等が男子に相続されるようになり、女性が男性に従属する形になっていきました。
庶民においても「今昔物語」の中で「家の主・家の女」という記述がみられることから、家の代表が男性に限定されていたことがわかります。
また、当初は夫婦別財が原則で田畑などの相続は男女平等に行われていましたが、10世紀以降は女性による土地売買の記録が減っていることから、家の経済の中心は男性であり、平等であった女性の地位が低下していたこともわかります。
このように平安時代は終わりに近づくにつれて、女性の地位が低下していく時代でもあったのです。
終わりに
「光る君へ」で注目されている紫式部と平安時代ですが、武士による武力が台頭した平安末期になるにつれ、女性の地位が低下していったことがわかりました。
男性中心の政治の中で、女性の家系が権力を得るためには天皇の寵愛を受け男の子を生み、その子を次の天皇とすることが必要だったのです。
参考文献 :
岩淵宏子・北田幸恵編「はじめて学ぶ日本女性文学史 近現代編(ミネルヴァ書房)」
総合女性史研究会編「時代を生きた女たち-新・日本女性通史-(朝日新聞出版)」
佐藤進一「日本の中世国家(岩波書店)」
倉本一宏「紫式部と平安の都(吉川弘文館)」
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