愛知然り、信州然り、強力な戦国大名がいた土地には、美味しい味噌があることが多いです。
東北の覇者、伊達政宗が活躍した仙台も例外ではなく「仙台みそ」という有名な味噌が存在します。
今回の記事では、伊達政宗と彼がこだわり抜いた仙台みそについてのエピソードを紹介していきます。
城下に味噌専用の蔵を建造して「仙台みそ」のブランドを築く
慶長6年(1601年)に政宗は仙台に青葉城(仙台城)を築き始めると、城下に大規模な味噌づくり用の御用蔵を建造しました。
これは「御塩噌蔵(おえんそぐら)」と呼ばれ、日本初の味噌工場と言われています。
これは領内産業の発展だけでなく、軍事用の側面もありました。
この御塩噌蔵の管理を任されたのが常陸国真壁郡(現在の茨城県の中西部)の真壁屋市兵衛という人物で、政宗は彼に味噌づくりを一任。
真壁屋は寛永3年(1626年)3月、仙台城下の国分町に「仙台みそ」の看板を掲げ、現在の仙台みその元祖を興しました。
「その味噌、ほしい!」朝鮮出兵で一躍有名になった仙台みそ
そんな仙台みそを一躍有名になったのが、時は少し戻り文禄元年(1592年)に秀吉が朝鮮に出兵した時です。
政宗は秀吉の命を受けて朝鮮へと渡り、兵糧として大量の味噌も送り込んでいました。
大陸特有の寒暑厳しい風土に、他藩の味噌は軒並み腐敗してしまい、ほとんど食べられなくなってしまいました。
しかし、政宗の味噌だけは少しも変質せず、さらに味も抜群に美味しかったそうです。
仙台みそは米麴を使った色鮮やかで独特の光沢がある山吹色の赤みそで、塩味や旨味が強いのが特徴です。
朝鮮滞在中の諸将たちはこぞって政宗のみそを欲しがり、政宗も乞われるがまま他藩の武将たちにも分け与えたことで「仙台みそ」は名声を得たのでした。
味噌へのこだわりは伊達じゃねぇ!政宗の味噌愛
政宗は普段から
「朝夕の食事うまからずとも、ほめて食うべし」『伊達政宗壁書』
と言っていたようで、ごはんの味についてあまりうるさいことは言いませんでした。
しかし味噌だけは別。
毎食、味噌汁だけは必ず欠かさず飲んでいたと言われています。
また、政宗は記憶力が尋常ではないほど高く、他藩の家臣や商人でも、一度会っただけで外見はもちろん姓名も忘れることはなかったそうです。
味噌汁には脳を活性化する効果があることが指摘されており、記憶力、判断力がつき集中力も増加すると言われています。
政宗のこうした尋常ならざる記憶力は、毎食欠かさずとっていた味噌汁パワーのおかげだったのかもしれません。
さらに政宗は、仙台藩だけでなく江戸に7つあった藩邸の一つである大井(現在の東京都品川区東大井4丁目付近)の下屋敷でも仙台みそを作らせました。
原料の米や大豆はもちろんのこと、麹まで仙台からわざわざ運ばせていました。
相当な凝りようであったことがうかがえます。
もともとは江戸勤番の士卒たち(江戸へ単身赴任している武士)のために作らせたものでしたが、「うちにもほしい!」という声が増え、仙台藩2代藩主である忠宗(ただむね)の時代から、庶民にも払い下げられるようになったのです。
当時、世界最大級の都市へと発展しようとしていた江戸では、建築現場を始めとした力仕事に従事する出稼ぎ労働者が多かったと言います。
日々、肉体労働で汗を大量に流していた彼らにとって、塩味も旨味も濃い仙台みそは、まさにぴったりの食材。
庶民でも手軽に手に入るようになった後は、江戸っ子たちにとって無くてはならない存在となったのでした。
そうして江戸の人々に愛された仙台みそは、戦後に信州みそが台頭するまで覇権を握り続けることとなります。
「みそ」に関して言えば「政宗は天下を取った」と言えるかもしれませんね。
おわりに
政宗がこだわりぬいた仙台みそは今も人気が高く、日本の食文化に深く根ざしています。
みそを通じて地域経済を発展させ、人々に豊かな食生活をもたらしたことは、彼が残した華々しい武功と同じくらい偉大な業績と言えるかもしれません。
たべもの日本史 著:永山久夫
信長の朝ごはん龍馬のお弁当 編集:俎倶楽部
「仙台みそ」の長い歴史 – 宮城県味噌醤油工業協同組合
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