奈良時代

【古代の日中関係】 白村江の戦いで完敗した日本 ~蘇我氏と仏教の台頭

古代日本と中国の関係

画像 : 白村江の戦い Stillskywkpd CC BY-SA 3.0

古代の日本にとって、中国は現代のアメリカ以上に大きな存在でした。

663年に起こった「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)」において、日本は中国()と直接対決し、完敗を喫しています。

古代日本初の大規模対外戦争「白村江の戦い」が起こった理由と後世の影響
https://kusanomido.com/study/history/japan/asuka/54963/

敗戦後、日本は何度も遣唐使を派遣し、唐も日本に使節を送りました。唐からの使者である郭務悰(かくむそう)は、当時の日本人にとってマッカーサーのような存在だったと言えます。

しかし郭務悰の名前は、中国の史書には残されていません。日中戦争のように近代史で起こった出来事の扱いとは、大きく異なっています。

唐の皇帝の立場から見ると「白村江の戦い」は、百済に駐留している唐の軍隊に対する注意喚起ぐらいの出来事だったと考えられます。

唐の皇帝からすれば辺境の地に駐留する軍隊が起こした些細な出来事であり、中央政府から見れば、それほど重大な問題ではなかったということです。

一方の日本にとって「白村江の戦い」は国の命運をかけた一大事でした。敗戦は日本の国家体制を大きく変革する重要なきっかけにもなります。

このように同じ歴史的事件でも、それぞれの国や地域によって、その重要性や影響の大きさは異なるのです。

アレクサンドロス大王のインド侵攻

白村江の戦いで完敗した日本

画像:インド史に大きな影響を与えたアレクサンドロス大王 public domain

紀元前327年、アレクサンドロス大王率いる大軍がインダス川流域を蹂躙したことは、ヨーロッパの歴史ではそれほど重要視されていません。

しかしながら、小さな王国に分裂していた当時のインドからすると、大変ショッキングな出来事でした。インドでは統一王朝を作ろうという機運が高まり、マウリヤ朝が誕生しました。
インド史においては、アレクサンドロスの東征は極めて重要な出来事として扱われているのです。

このように世界史を見渡すと、ある国や地域では大きな影響を与えた出来事が、他の地域ではそれほど重要視されないというのは珍しくありません。

歴史を学ぶ際には、多角的な視点を持ち、それぞれの地域における出来事の意義を理解することが大切だと言えるでしょう。

古代日本と中国の国力差

古代日本は、中国と比べるとかなり小さな国でした。
当時の日本は、平城京や平安京を完成させるだけの国力(GDP)を持っていなかったのです。

現在の日本は、一人当たりのGDPは中国の3倍ほどありますが、当時は半分程度しかありませんでした。

同じく後進国だった当時のヨーロッパよりも、日本では内乱が少なく規模も小さかったようです。この理由は、内乱ができるほどの国力がなかったからだと言えるでしょう。

画像 : 落花岩から錦江を見下ろす publicdomain

「白村江の戦い」では、日本は政府を九州に移し、国力を結集して4万2千人の兵士を派遣しました。滅亡した百済の生き残りも加えて、ようやく実現できた大変な努力の結果だったのです。

また日本には、中国のようにお茶や絹などの「世界商品」がなかったため、外国から積極的に交易を求められることがありませんでした。日本で生活するには十分な食糧(米や魚)がありましたが、外国が欲しがるような特産品がなかったのです。

世界中から日本に交易に来るようになったのは、戦国時代に石見銀山などから銀を大量に産出するようになってからでした。

蘇我氏と物部氏の繁栄を分けたもの

一方の日本は、新しい知見や大きなプロジェクトをもたらす文化を、大陸(中国)から積極的に受容していきます。たとえば蘇我氏は、仏教を紹介して寺の工事を発注し、日本に新しい技術をもたらすことで権力を握っていったのです。

蘇我氏は、新しい考えを積極的に取り入れる進歩的な立場をとりました。当時の日本に伝わってきた仏教という新しい宗教を広めることで、天皇や朝廷関係者など権力者の関心を多く集めます。仏教には新しい知識や技術が含まれていたため、それを学ぼうとする人々が蘇我氏を求めたからです

このように蘇我氏は有力なスポンサーを集めることで、徐々に力をつけていきます。

新しい宗教や文化を受け入れ、それに関心を持つ人材を集めることが、蘇我氏が勢力を拡大した鍵だったのです。

画像:蘇我氏の全盛期を築いた蘇我馬子 oublic domain

一方の物部氏は、仏教を廃止しようとする保守的な立場をとりました。仏教を受け入れず、古い習慣や考え方を守ろうとしたのです。
しかし、物部氏についていっても現状維持でしかなく、新しい仕事は増えません。

新しい文化や知識を積極的に取り入れることの重要性が、蘇我氏と物部氏の盛衰を分けたと言えるでしょう。

聖武天皇光明子がつくった東大寺の大仏や、孝謙・称徳天皇が作った西大寺や百万塔陀羅尼は、国家的な公共事業だったのです。

仏教は当時の最先端技術であり、国を守るための重要な存在でした。

中国(大陸)の新しい文化を取り入れることで、日本の社会や文化は大きく成長できたと言えます。

参考文献:出口治明『0から学ぶ「日本史」講義 中世篇』文藝春秋

 

アバター画像

村上俊樹

投稿者の記事一覧

“進撃”の元教員 大学院のときは、哲学を少し。その後、高校の社会科教員を10年ほど。生徒からのあだ名は“巨人”。身長が高いので。今はライターとして色々と。フリーランスでライターもしていますので、DMなどいただけると幸いです。
Twitter→@Fishs_and_Chips

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 「いけばな発祥の地?」京都・六角堂に伝わる聖徳太子の伝説と華道の…
  2. 東大寺二月堂はなぜ二月なのか?
  3. 【焼失と再生】戦火を超えた奈良のコスモス寺『般若寺』とその歴史
  4. 聖武天皇は、なぜ大仏を建立したのか?
  5. 【古代史】蝦夷討伐に活躍した坂上田村麻呂のルーツは後漢の霊帝?そ…
  6. 奈良の大仏は過去に何度も破壊されていた
  7. 【悲劇の姫 十一皇女】 高市皇子の挽歌から、その実像に迫る 「万…
  8. 【5度の日本渡航失敗】鑑真が創建した唐招提寺に行ってみた

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

賄賂を要求した役人を滅多打ち!『三国志』の名場面、その犯人は?

落ちぶれていても王族の誇りを忘れず、志に集う仲間たちと共に幾多の困難を乗り越え、ついには漢王朝(蜀漢…

地図とともに見る幕末の江戸

徳川家康が江戸に幕府を開いて以来、政治の中心は250年以上も江戸が担っていた。家康が関東に封じら…

日本の夏は昔と比べてどれくらい暑くなったのか? 【1875年以降の気温をグラフ化してみた】

近年温暖化が進んでいると言われています。それが本当かどうかはともかく、最近の日本の夏…

引っ越し【漫画~キヒロの青春】㉗

西武池袋線のひばりヶ丘から、池袋まで数往復…

世界で最も読まれた本 ベスト5

世界中で、沢山の本が今までに出版されてきた。その中でも最も世界中の人たちに読まれている本は何…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(週間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP