日本プロ野球界初の外国人選手であるヴィクトル・スタルヒンは、191センチの長身から投げ下ろす160キロ近い剛速球で、戦前、戦後にわたって活躍し、昭和30年(1955年)、日本初の通算300勝を達成した名投手です。
日本プロ野球史にその名を深く刻んだスタルヒンでしたが、「白系ロシア人」だったため、戦時中には差別や屈辱的な仕打ちを受けています。
時代に翻弄され、過酷な人生を歩みながらも、大投手としての偉業を成し遂げたヴィクトル・スタルヒンの生涯を紹介します。
命がけの亡命
1916年、スタルヒンは帝政時代のロシアで生まれました。
1917年のロシア革命の際、父親がロマノフ王朝の将校だったため、赤軍の標的になることを恐れた一家はロシアを脱出。命からがらハルビンにたどり着いたものの安住の地とはならず、1925年に「白系ロシア人」の受け入れを始めた日本へ亡命します。
「白系ロシア人」とは、第一次世界大戦前後、ロシア革命から逃れ、国外に脱出した亡命者を指します。革命軍を象徴する「赤」に対して、反革命派の人々は「白」を意味し「白系」と呼ばれました。
スタルヒンはこの時9歳。一家は北海道旭川へと落ち着き、父親は毛織物の行商、母親はミルクホールを切り盛りして生計を立てていました。
断腸の思いでプロへの道を選んだスタルヒン
旧旭川中学校(現・旭川東高等学校)時代、スタルヒンは野球部に在籍し、長身を生かした剛速球で1年生のときからエースとして活躍しました。
全道中等野球大会に出場し、2年連続で決勝に駒を進めましたが、甲子園には届かず、優勝を目指して日夜練習に励むスタルヒンに転機が訪れます。
1934年(昭和9年)ベーブ・ルースを擁する大リーグ選抜チームと全日本選抜チームが対戦する「第二回日米野球大会」が開催されることになりました。
しかし、当時は「学生野球の選手をプロ球団と戦わせてはならない」という野球統制訓令が文部省から出されており、学生を日米野球に出場させることができませんでした。
そこで主催の読売新聞は、日本初の職業野球団「大日本東京野球倶楽部」を設立。
まず、京都商業の学生だった沢村栄治を中退させて獲得し、同じようにスタルヒンの引き抜きにかかります。
こうして旭川中学にスカウトがやって来ましたが、すでにスター選手となっていたスタルヒンを学校側も旭川市民も手放そうとせず、なにより本人が甲子園出場という夢のために中学に残ることを切望していました。
しかし、スタルヒンには入団を拒否できない理由がありました。中学1年の時に実父が殺人事件を起こし、経済的に窮乏していたのです。
また白系ロシア人である故に、家族全員ソビエト連邦への強制送還もあることを突き付けられたスタルヒンに「断る」という選択肢はありませんでした。
中学を中退し、夜逃げをするように母と共に東京へ向かったのです。
輝かしい戦績を残した巨人軍時代のスタルヒン
1936年(昭和11年)、「大日本東京野球倶楽部」は「東京巨人軍」となり、スタルヒンはプロ野球史上初の外国人選手として巨人軍の一員となります。
当初、コントロールが悪くベテラン勢に怒鳴られる毎日でしたが、監督の藤本定義(ふじもと さだよし)に励まされ、猛練習の末に制球力を身につけました。
1938年(昭和13年)には33勝を記録。翌1939年には巨人軍66勝中42勝をあげ、さらに165試合目でプロ野球史上初の通算100勝を達成しています。
翌年には38勝し、5シーズン連続で最多勝を獲得。2年連続で最高殊勲選手に選ばれました。
当時、スタルヒンの球を受けていた捕手・多田文久三(ただ ふくぞう)によると、スタルヒンの投げる球はとにかく速くて重く、アウトコースの小さなカーブを、コーナーぎりぎりに決めるのが得意だったそうです。
戦局の悪化と「須田博」への改名
戦争の暗い影は球界にも押し寄せており、1938年(昭和13年)には巨人軍のエース沢村栄治が徴兵されました。
その後、沢村は二度召集されて戦死しています。
無国籍のスタルヒンは徴兵されることはなかったものの、敵性語の禁止と同時にスタルヒンをもじった「須田博(スダヒロシ)」へ変更させられました。
また、白系ロシア人はソ連の手先と考えられており、スタルヒンも軍部からスパイ容疑をかけられ、特高や憲兵に何度も連行されました。常に厳しい監視や尾行がつきまとい、その風貌から、そば屋に密告され、特高に連れて行かれたこともあります。
スタルヒンは日本国籍の取得を希望しましたが、彼の願いが叶うことは生涯ありませんでした。
1944年(昭和19年)巨人軍から追放され、スタルヒンは政府の勧めにより、軽井沢で疎開生活を送りました。
しかし実際には、疎開とは名ばかりの抑留生活でした。
戦後、300勝を達成し引退
軽井沢で終戦を迎え、通訳として働き始めたある日、スタルヒンは巨人軍時代に親身に世話をしてくれた藤本定義と偶然再会します。
藤本が監督を務めているパシフィックで復帰を果たし、その後、スターズ、ユニオンズに移り、1955年(昭和30年)、日本プロ野球史上初の300勝を達成しました。当時アメリカの大リーグでも達成者は12人しかいない大記録でした。
この時スタルヒンは39歳。現役続行を希望しますが、無情にも球団からは解雇を通告されてしまいます。
300勝を記念した表彰式などの行事は一切行われず、「ボールボーイでもいいから、野球に関わる仕事がしたい」という希望を抱くも、声がかかることはありませんでした。
不可解な死
引退後、スタルヒンは始終何かにおびえるようになり、用心深くなっていきます。
ベッドの横にバットをおいて寝たり、二階の窓に鎖梯子(くさりばしご)を取り付けたり、映画館では非常口を確認しないと、落ち着いて映画を見られないほどでした。
1957年(昭和32年)1月12日の夜、中学校の同窓会に出席するため運転していた車が、路面電車に追突して大破。スタルヒンは全身を強打し、40歳で帰らぬ人となりました。
事故の原因は、「飲酒運転」「前の車を追い越そうとしてスピードを出しすぎた」「自殺」など様々な説があります。
しかし、友人の証言によれば、スタルヒンが車で向かった先は同窓会の会場と逆方向だったうえに、乗っていた同窓生を車から降ろし、電車で行くように指示するなど、いささか不可解なことが多く、今も謎となっています。
スタルヒンは何事にも決して逆らわず、笑顔を絶やさぬ優しい人でした。それは亡命者として生きる母の教えであり、険しい道のりの中で身につけた術だといいます。
1984年(昭和59年)、時代に翻弄されながらも華々しい記録を残したスタルヒンの功績を称え、旭川市営球場は「スタルヒン球場」と命名されました。
球場正面に据えられたスタルヒン像は、優しい微笑みを湛えています。
参考文献
中尾明『ロシアからきた大投手 日本のプロ野球外国人選手第一号スタルヒン』.PHP研究所
報知新聞社運動部編『巨人軍 : 過去と明日への展望』,三笠書房,1958. 国立国会図書館デジタルコレクション
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