念願の「石山寺」にはじめての参詣
以前からずっと気になっていた寺院がありました。その寺の名は「石山寺」。
そう、現在放映中の大河ドラマ『光る君へ』の主人公・紫式部が『源氏物語』執筆の着想を得たとされる寺院です。式部はこの寺に滞在し、琵琶湖に写る月を見て『源氏物語』を着想。ここで「須磨」「明石」の2帖を書いたとか。
1年間に何度も近畿地方に出向く筆者ですが、実は「石山寺」を訪れたことは一度もありませんでした。そして今回ついに「石山寺詣で」が叶ったのです。
そのきっかけは京都で宿泊したホテルのロビーでのこと。妙齢の女性グループが「今日は歩き疲れたな。でも石山寺、本当に良かった。」との会話が耳に飛び込んできたのです。
「そうか石山寺は、そんなにいいところなのか。」そう思うと、もはや気持ちは「石山寺」へ。ネットで調べてみると、京都市内から車で30分と出ました。「なんだ、ずいぶん近いじゃないか。」それもそうです。石山寺は京都市の山科区のお隣の大津市でした。
翌日の昼前に京都市内を車で出発。山科区内で渋滞があったものの、ほぼ国道1号線を真っすぐ、40分ほどで「石山寺」に到着しました。
『光る君へ』ブームで湧く「石山寺」は大変な人で賑わっていました。「大河ドラマ館」「石山寺物産館」もでき、紫式部の肖像画の展示が行われるなど、まさに『光る君へ』一色の光景です。
訪れている人たちは、年代層も性別も様々。熟年以上のグループが多いことは予想の内でしたが、意外と若い女性グループやカップルが多いのには驚きました。これも大河ドラマの影響なのでしょう。
そんな「石山寺」の感想はというと、これが「実に素晴らしい!」の一言でした。いや素晴らしいと通り越して「感動!」でした。
正門である「東大門」を潜り、志納所で拝観料を支払い、境内に入ると『光る君へ』一色の雰囲気が一転します。古くから霊験あらたかな寺院として、朝野の崇敬を集めた古刹だけあり、いわゆる観光寺院とは一線を画した雰囲気がビシビシと伝わってくるのです。
「石山寺」の始まりは奈良時代。同寺の伽藍は、石山の名の通り巨大な岩の上にあります。眼下には悠々と流れる瀬田川を望むことができ、源頼朝が寄進した国宝の多宝塔など見どころが多く、「近江の正倉院」と称されるほど、豊富な文化財を所蔵しているとのこと。
それでは、「石山寺」の参詣レポートを綴っていきましょう。
境内へ上る石段から見応え十分
志納所から境内に入ると右側に「くぐり岩」と呼ばれる小高い岩山が現れます。ここは、自然の大理石でできた胎内くぐり。
奈良時代からあるというから驚かされるが、いわゆるパワースポットの一種ですね。
さらに進むと、本堂を中心に構成される伽藍エリアへ上る石の階段が現れました。
写真ではそんな急に見えないかもしれませんが、これが結構な角度なのです。
石段の半ば左手に「龍蔵権現社」の社があります。
明和年間(1764~1722年)に再建された社が鎮座するのは、巨大な磐座。
神が降臨する神代の上に座する姿は神々しい雰囲気に満ちています。
そして石段を登り切ったところには、千年杉と呼ばれる「石山寺」の「神木」。
幹周4.3m、樹高30mの堂々たる姿で、推定樹齢は350年とされます。
突出した巨大な珪灰石と本尊を祀る本堂
急な石段を登りきり境内に足を踏み入れると、先ず目に飛び込んでくるのが、正面の突出した巨大な珪灰石群。天然記念物に指定されているとか。
実は「石山寺」の諸堂は、珪灰石の岩盤の上に配されているのです。
境内はその山の中腹の言うなればテラス状の平坦地で、左側に「本堂」「蓮如堂」。そして、右側に「観音堂」「毘沙門堂」「御影堂」が建ちます。
国宝の「本堂」は、 正堂と礼堂を合の間で繋いだ複合建築。
南側の傾斜地に南向きに建てられており、礼堂部分が清水寺などと同じ懸造となっています。
正堂には、慶長年間(1596~1615年)に新設された巨大な厨子があり、その内部に本尊・如意輪観音菩薩を祀っています。観音様は、隆起した硅灰石を台座とし、その上にお鎮まりになります。言い換えれば、本尊を中心に正堂が建てられたとも言えるのです。
平安時代末期の作と考えられる本尊は秘仏で、33年に一度と天皇即位の翌年に開帳され、安産・福徳・縁結びのご利益で信仰を集めます。
ここはまさに、観音霊場「石山寺」の根本。堂内に居るだけで、そのあらたかな霊験が伝わってくるようです。
合の間は「正堂」と「礼堂」を繋ぐ建物で、その東端は「紫式部源氏の間」といわれ、中には、執筆中とおぼしき紫式部の姿が。
やはりドラマの影響か、ひっきりなしに人々が行列を作って覗き込んでいました。
「本堂」の左側に建つ「蓮如堂」は、浄土真宗の蓮如上人を祀っていますが、もともとは本堂東側の珪灰石の上に鎮座する「三十八所権現社」の拝殿でした。
「本堂」よりもせり出しているのはそのためで、同社と向かい合っています。
そして境内右側には、手前から西国三十三所観音霊場の観音を祀る「観音堂」。
平安時代作の兜跋毘沙門天・吉祥天などを祀る重要文化財の「毘沙門堂」。
石山寺開創の祖師である弘法大師・良弁僧正・淳祐内供の像を安置する同じく重要文化財の「御影堂」が並びます。
巨大な磐座のような石の上にある社
続いては、聳え立つ珪灰石の上にある諸堂を見ていきましょう。「礼堂」の脇の石段を上ると「三十八所権現社」がまさに珪灰石の上に鎮座しています。
この社は天智天皇までの歴代の天皇を祀る「石山寺」の鎮守社。
鎌倉初期の記録にも見えるという説もありますが、1602(慶長7)年の建立が確実。
ここも重要文化財に指定されています。
そして、さらに珪灰石を上ると校倉造で重要文化財の「経堂」があります。
かつて『石山寺一切経』『校倉聖教』などの重要な経典類が収められていました。
「経堂」の近くに鎌倉時代作とされる高さ2.6mの「紫式部供養塔」があり、その先の石段を上がると「石山寺」の寺域における最頂部に至ります。
最美最古の優雅な多宝塔と月見亭
「多宝塔」は、境内からも、とても目立つ建築物。聳え立つ珪灰石群の正面にその優美な姿を覗かせます。
この塔は、墨書より1194(建久5)年の建立とわかる日本最古の多宝塔。
平治の乱の後に「石山寺」が、兄・義平を匿ってくれたことへのお礼として、源頼朝が寄進したとされ、上下二層のバランス・軒の曲線が美しい最古最美の塔として知られます。
その傍らには源頼朝供養塔 ・亀谷禅尼供養塔が並んでいます。
亀谷禅尼は中原親能の妻で、頼朝の次女の乳母だった女性です。剃髪して「石山寺」に入り、頼朝に再興を勧めた人物でもあります。
「多宝塔」の東側「石山寺」の尾根の東の突端部に「月見亭」が、せり出すように建ちます。
保元年間(1156~58年)に、後白河天皇が行幸した際に建立されたといわれ、現在の建物は、1687(貞享4)年の再建です。
瀬田川や琵琶湖をのぞめ、ここから見る月は『近江八景 石山の秋月』の図で有名です。
珪灰石がそそり立つ山に、懸造の「本堂」が描かれているのも興味深く、「石山寺」の全貌がよくわかる図です。
ちなみに現在の眺望はこんな感じです。
『近江八景 石山の秋月』は「石山寺」の麓から描いているので、視点が異なりますが、十分に古の雰囲気が残っていますよね。
この寺域では「多宝塔」と「月見亭」が有名で、多くの人が集まっていましたが、筆者が個人的に興味をひかれたのは「月見亭」の近くに鎮座する「若宮」という小さな社です。
弘文天皇、すなわち大友皇子を祀るとされ、壬申の乱で敗れ自刃した皇子をこの地に葬り、古来より寺僧により密かに供養されてきたとか。
大友皇子率いる近江朝廷軍と、大海人皇子軍が最後の決戦を行ったのが「石山寺」近くの「瀬田唐橋」です。
「石山寺」は大友の父・天智天皇ともゆかりの深い寺院だけに、何かしらの謎が残されているのかもしれません。
さてここからは山上の道を西に進んで、懸造の堂宇「光堂」へ。
石山を発祥の地とする東レが、2008(平成20年)に寄進した新しい建物ですが、元々は鎌倉時代にあったとされます。
そして「光堂」の下にある「紫式部像」を経て、山道を下りながら境内入り口の石段の下に戻りました。
さすがに「紫式部像」の周りにはたくさんの人がいて、スマホやデジカメで像をバックに記念撮影に勤しんでいました。
今回の「石山寺」参詣は、寺域全体をめぐることが目的でしたが、所要時間は割とゆっくり歩いて約2時間半ほどでした。とはいっても、全ての堂宇・社を見られたわけではありません。
次は、今回見逃した堂宇・社を含め、ポイントを絞って時間をかけて参詣したいと思いました。
寺院としても文化財としても、見応え満点の「石山寺」。同寺は、何度も訪れたい、そんな魅力あふれる寺院として深く心に残りました。
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