リジー・ボーデンという「マザーグース」をご存じだろうか。
「マザーグース」とはイギリスやアメリカなどの英語圏の子どもたちに歌われる、わらべ歌のようなものだ。
リジー・ボーデンの歌詞は以下の通りだ。
Lizzie Borden took an axe,
(リジー・ボーデン 斧を手に)
Hit her father forty whacks,
(父を40回 めった打ち)
When she show what she had done,
(彼女が自分のしたことを知った時)
She hit her mother forty-one.
(母を41回 めった打ち)」
子どもが歌うにしてはかなり残忍な歌詞になんとも違和感を覚えるが、この歌はアメリカの子どもたちの間で「なわとび歌」として大流行した。
そして、歌の冒頭に出てくるリジー・ボーデンこそが、今回解説する親殺しの容疑をかけられた女性だ。
彼女は「両親殺害の罪」で起訴され裁判にかけられたものの、数々の状況証拠を覆して一転「無罪」となった人物である。
謎多きボーデン夫妻殺害事件の真犯人は見つからず未解決事件となり、やがてアメリカの民間伝承として語り継がれていくこととなった。
ボーデン夫妻殺害事件の概要
事件が起きたのは、1892年8月4日の午前中だった。
リジー・ボーデンの父アンドリューと、継母のアビーが、自宅にて無残な状態の遺体として発見された。事件当時ボーデン家にいたのは両親の他、リジーと住み込みのメイドだけだった。
事件が起きた当日の朝はアンドリューは銀行と郵便局に出かけていたが、10時45分ごろには自宅に戻っていた。そしてそれから30分ほど経った後、リジーがアンドリューの遺体を発見したのだ。
リジーが悲鳴を上げた時、メイドは「3階の自室で横になっていた」と証言している。
父親の死にショックを受けたリジーが、隣の住人とかかりつけの医師に介抱されている間に、2階のゲストルームで殺されていたアビーをメイドが発見する。
アンドリューとアビーはともに頭部を斧で複数回殴られており、アンドリューは11回、アビーは18~19回殴られていたことが後の調査で判明した。
リジーの生い立ち
リジーことリジー・アンドリュー・ボーデンは、資産家の父アンドリュー・ジャクソン・ボーデンと母サラ・アンソニー・ボーデンの次女として、1860年7月19日にアメリカのマサチューセッツ州フォールリバーで生まれた。
父アンドリューは、経済的に有利であるはずのイギリスウェールズ系の移民の子孫であったが、貧しい環境で育ち、若い頃は金に苦労した人物だった。
その後、アンドリューは実業家として成功して地元の名士となり、巨額の富を得た。しかし幼い頃の経験もあってか非常に倹約化で、同程度の資産家に比べて一家は慎ましい生活を強いられていたという。
リジーにはエマという姉がいたが、姉妹は敬虔なキリスト教徒で、リジーは移民の子どもたちに教会の日曜学校で勉強を教える活動をしていた。他にもキリスト教青年教会で秘書兼会計を務めたり、女性キリスト教禁酒連合の活動に関わることもあった。
母のサラはリジーが3歳の時に病死した。サラの死から3年後、アンドリューはアビーと再婚した。しかし姉妹と継母の折り合いは悪く、リジーはアビーのことを「ミセス・ボーデン」と呼び、父の財産目当てに再婚したと信じ込んでいた。
ボーデン夫妻とリジー姉妹が対立するようになったボーデン家では、上階を2つに分断して家庭内別居の形を取っていた。リジー姉妹がアビーや父親と食事を一緒に取ることはほぼなかったという。
ボーデン夫妻とリジーの確執
ボーデン夫妻殺害の数ヶ月前から、ボーデン家には不穏な空気が漂っていた。それはアンドリューがアビーの親戚に、自身が所有していた不動産を贈与してしまったからだ。
ボーデン夫妻とリジーたちの間では激しい言い争いが行われ、姉妹は休暇をとって家を離れることにしたが、リジーは休暇を取りやめて事件発生の3日ほど前にボーデン家に戻ってきていたのだ。
一家が暮らすボーデン家の邸宅はアビーが相続することとなり、リジーとエマの母方の叔父であるジョン・モースが、リジー姉妹が使用していた別荘や農場の相続に関する話のため、事件発生の前日からボーデン家に滞在していた。
また事件の数日前、ボーデン一家はひどい体調不良に見舞われていたという。アンドリューが地域の住民から嫌われていたためアビーは毒が盛られたのかと疑ったが、これは腐った羊肉が原因の食中毒だったと考えられた。
アンドリューが自宅に帰宅した時、メイドは「2階からリジーの笑い声が聞こえた」と証言した。この時すでにアビーは死亡していたと考えられ、この証言はリジーを被疑者とする重要な根拠となった。
事件当時に関するリジーの証言にも矛盾が多く、警察の捜査によりリジーはボーデン夫妻殺害の被疑者となったのである。
リジーの裁判
ボーデン夫妻殺害の被疑者となったリジーは殺人罪で起訴された。リジーは一貫して無罪を主張し、裁判は全米で過熱報道されることとなる。
警察の捜査の結果、凶器は地下室で発見された柄の大部分が行方不明になった斧とされた。その斧自体はきれいな状態だったが、検察は「リジーが血だらけになった柄を証拠隠滅のために折った」と主張した。
しかし警察官は「その斧が発見された時に、隣に柄があった」と証言し、検視官は「斧の刃部分を汚れを落とす時間はなかっただろう」と証言した。
警察は返り血を浴びた衣服の類を見つけることができなかったが、事件の2日後の朝、リジーはブルーのドレスを引き裂いてキッチンのストーブで燃やしていた。この行動についてリジーは「ペンキが付いたので処分した」と主張した。
検視後のアンドリューの破壊された頭蓋骨は証拠として法廷に提出され、それを目の当たりにした時リジーは失神したという。
結局、状況証拠は数多く見つかっていたが、決定的な証拠や自供がなく、リジーは「無罪」を勝ち取った。
凶器が見つからない点、返り血を浴びた衣服が見つからない点が、リジーに下された判決の決め手となった。
無罪という判決を受けたリジーは裁判所外で待ち構えていた記者団に対して、自分は「世界で最も幸せな女性である」と語ったという。
判決後のリジー
裁判で無罪を勝ち取ったリジーだが、真犯人が見つからないボーデン夫妻殺害事件について様々な人物が推理を行った。
町の住民がボーデン夫妻に恨みを抱いて殺害した説、叔父やメイドが真犯人説、月経中にてんかんのような症状を呈すことがあったリジーが無意識のうちに殺害した説などが上がった。
裁判後、両親が所有していた多額の財産を相続したリジーと姉のエマは、フォールリバーの高級住宅地ザ・ヒルの大邸宅に移り住み、リジーは名前をリズベット・A・ボーデンに変えた。
しかしフォールリバーの住民がリジーに向けた目は厳しく、やがて町を追放される。事件から5年後の1897年、リジーはロードアイランド州で万引きで逮捕され、再び大衆からの注目を浴びることとなる。
晩年のリジーはフォールリバーに帰り、胆嚢切除手術を受けた後から体調を崩して肺炎となり、1927年6月1日に66歳でこの世を去った。
9日後には姉のエマも慢性腎炎により亡くなり、2人の亡骸はオークグローブ墓地のボーデン家用の敷地に並んで埋葬された。
事件の影響と現在のボーデン家
冒頭に紹介したマザーグースには、実は2番があることをご存じだろうか。その歌詞が以下の通りだ。
「Andrew Borden now is dead,
(アンドリュー・ボーデンはもう死んだ)
Lizzie hit him on the head.
(リジーは彼の頭を殴った)
Up in heaven he will sing,
(天国で彼は歌うだろう)
on the gallows she will swing.
(絞首台の上で彼女は揺れるだろう)」
全米から注目されたボーデン夫妻殺害事件は、アメリカの大衆文化や犯罪学に大きな影響をもたらした。
「どう考えても怪しいリジーが無罪となったのは、警察のずさんな捜査が原因だ」と非難の声が挙がり、真犯人探しの推理をする人も絶えなかった。
しかし結局真犯人が見つかることはなく、事件の真相は分からずじまいとなってしまった。
事件の現場となったボーデン家は今は博物館兼簡易宿泊施設として運営されており、コーキーロー歴史地区で随一の人気観光名所となっている。
様々な謎と憶測を生んだこの事件。リジーに下された無罪という判決と、ボーデン夫妻を殺した犯人について、あなたは一体どう考えるだろうか。
参考文献
仁賀 克雄 (著)『リジー・ボーデン事件の真相』
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