ウォルター・シッカートは、19世紀末から20世紀にかけて活躍したイギリスの画家だ。
日本では知名度が低いシッカートだが、イギリスでは20世紀の前衛芸術のブリティッシュスタイルに影響を与えた人物とされ、教科書にも載るほどの偉人として扱われているという。
イギリスの文化において偉大なる功績を残したシッカートだが、彼はイギリスで起きたホワイトチャペル殺人事件、いわゆる切り裂きジャック事件の真犯人ではないかと噂された人物なのだ。
今回は異色のエリート画家ウォルター・シッカートの生涯と、彼が切り裂きジャック事件の真犯人とされた理由に迫っていこう。
ウォルター・シッカートの生い立ち
ウォルター・シッカートは1860年5月31日、ドイツのミュンヘンでデンマーク系ドイツ人の父オズワルド・シッカートとイギリス人の母エレノア・ルイーザ・ヘンリーの長男として生まれた。
生まれてからしばらくは両親と5人の兄妹と共にミュンヘンで暮らしていたが、8歳頃に一家でイギリスに移り住むこととなる。
シッカートの父は漫画雑誌のイラストレーターを生業としており、父方の祖父はデンマークでは有名な画家だった。
シッカートは18歳から舞台俳優を目指し演劇を学んでいたが、俳優の道は途中で諦め、1881年にロンドンの名門スレード美術学校に入学し、美術の道に進む。
祖父や父と同じ画家を志すようになったシッカートは、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの作品に感銘を受け、美術学校を中退してホイッスラーの弟子兼助手を務めるようになった。
画家としてデビュー
シッカートは1880年代後半に画家としてデビューした。
初期の作品は、どちらかといえば写実主義的な作品が多い。
1885年、シッカートは1回目の結婚をする。
妻となったのは政治家の娘で、シッカート夫妻は多くの時間をフランスのディエップというコミューンで過ごした。
パリで創作活動をすることも多かったシッカートは、当時パリで名を馳せていた『エトワール』などの名画の作者として知られるエドガー・ドガと出会う。シッカートとドガは26歳も年が離れていたが、2人は良き友人同士となった。
シッカートはドガの画風や助言から影響を受け、自分の作風を確立させていく。皮肉屋で難しい性格のドガにとって、シッカートは死ぬまで親交があった数少ない友人だった。師であるホイッスラーと、友人であるドガの影響により、シッカートの初期の作風は印象派に分類される。
やがてシッカートの作品は、新進気鋭の若手画家たちが設立したニュー・イングリッシュ・アート・クラブに多く展示されることとなる。その後もイギリスで行われた印象派の展覧会にも作品を出品し、時には「主題が低俗すぎる」と批判されながらも画家としてのキャリアを積んでいった。
1893年になると、シッカートはホイッスラーの援助を受けて、ロンドンで美術学校を開校する。
シッカートの作品はイギリスの季刊文芸誌『イエロー・ブック』にも寄稿され、その名はイギリス中に知れ渡っていくこととなった。
カムデン・タウンでの生活
1899年に妻と離婚しロンドンに戻ったシッカートは、1905年に自身のアトリエを労働者階級の人々が住むカムデン・タウンに移し、創作活動を行った。
シッカートがわざわざ治安の良くない貧困地区を拠点として選んだのは、多くの印象派画家が愛していた自然や街の美しい風景よりも、労働階級の人々の生々しい暮らしに魅了されていたからだ。
それから約2年後の1907年9月11日、カムデン・タウンで娼婦が残忍な手口で殺害される事件が起きる。被害者となった娼婦は、事後眠っている間に喉を切り裂かれて息絶えていたという。
この「カムデン・タウン殺人事件」は容疑者が裁判で無罪になり、真犯人が見つからず当時大変話題となった。
シッカートは、事件が起こる数年前から裸の女性がベッドに横たわる題材を多く描いていたが、1908年に発表した裸婦とうつむく男が描かれた作品に『カムデン・タウンの殺人』と銘打ち、これが物議を醸すこととなる。
しかしシッカートは批判にもめげず、貧民の暮らしをリアルに描く社会派画家として、1908年から1909年にかけて手がけた4つの作品に『カムデン・タウンの殺人』と名付けた。
4つの作品のうちの1つの本来のタイトルは『家賃をどうしよう』で、現実に起きた殺人とはまったく関係なかった。
しかし薄暗い雰囲気漂うその絵を当時話題となった事件と結びつけたことにより、シッカートの名は世界的に広まっていくこととなったのだ。
切り裂きジャックの寝室
シッカートは『カムデン・タウンの殺人』の前にも、意味深な作品を発表していた。
それこそが、後年シッカートが切り裂きジャックの真犯人として疑われる原因となった『切り裂きジャックの寝室』だ。
この作品はシッカートが自室をモチーフに描いた絵画だった。しかしシッカートが切り裂きジャックであるという説には色々と難がある。
一般的に切り裂きジャックが事件を起こしたとされるのは、1888年4月から1891年2月にかけてのことだ。その頃のシッカートは、海の向こうのフランスで多くの時間を過ごしていた。
それではなぜ、シッカートはこの絵に『切り裂きジャックの寝室』などという意味深な題名を付けたのか。それは彼が住んでいたアパートの女主人が、「その部屋に、かつて切り裂きジャックと疑われる人物が住んでいた」と、シッカートに語ったことが理由であるという。
そしてシッカートは、切り裂きジャックという得体の知れない殺人犯に仄暗い魅力を感じてしまう多くのイギリス人のうちの1人だった。
つまり、シッカートは切り裂きジャックが住んでいたという噂のある事故物件に住み、切り裂きジャックが過ごしていた頃の光景を、持ち前の想像力を働かせて『切り裂きジャックの寝室』として描いたに過ぎなかったのだ。
「シッカート=切り裂きジャック説」が大々的に提唱されたのは、実はシッカートの没後から60年も経った2002年のことだった。
シッカートに切り裂きジャック容疑をかけたのは、アメリカのベストセラー推理作家、パトリシア・コーンウェルだ。
大ヒットシリーズ『検視官』で世界的な有名作家となったコーンウェルは、私財7億円を投じて独自に取材を行い、シッカートが切り裂きジャックであると確信して、2002年に『真相 -“切り裂きジャック”は誰なのか?』を刊行した。
コーンウェルは調査のためにシッカートの作品を100点以上も購入し、手紙や所持品を手に入れてDNA鑑定や筆跡鑑定を行い、シッカートを切り裂きジャックとする様々な根拠を提唱したのだ。
だが、美術界はコーンウェルに対して批判的な立場を取った。
コーンウェルの推理はこじ付けに過ぎず、物証も確実なものではないとし、「イギリス美術の発展に貢献したシッカートが切り裂きジャックであると考えるのは、暴論である」と非難する意見が出るほどだった。
後年のシッカート
シッカートは1911年に、それまで非公式で集まっていたカムデン・タウン・グループという芸術集団を正式に設立し、創作活動を行った。
自身の創作の傍らでは1910年に私立美術学校を設立し、1915年から1918年にかけてはウエストミンスター美術学校で教師を務め、1924年にはイギリス美術界の重鎮として王立アカデミーの会員に選出される。
1920年以降、シッカートはウィンストン・チャーチルなどを筆頭に上流階級の人々と交流を持ち、1928年から1930年にかけては英国王立芸術家協会の会長も務めた。
晩年は3番目の妻である画家のテレーズに補助されながらも創作に携わり、1942年1月22日、81歳の時にイングランド・バースで亡くなった。
シッカートが切り裂きジャックである説については疑問を感じざるを得ないが、画家または美術家として、彼が美術界に残した功績や、後進の画家たちに与えた影響は間違いなく大きい。
パトリシア・コーンウェルはまだ諦めてはいないようだが、シッカートが切り裂きジャックではないとしたら、真犯人は一体誰なのか。
世界史上初の劇場型殺人事件の犯人は、いまだ見つかりそうにない。
参考文献
パトリシア・コーンウェル (著), 大野晶子 (翻訳) 『切り裂きジャックを追いかけて』
山田五郎 (著) 『「山田五郎 オトナの教養講座」 世界一やばい西洋絵画の見方入門2』
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