昔から、絶世の美女のことを「傾国の美女」などと称します。
傾国の美女とは、一国の元首が、政治を疎かにして国家崩壊をもたらすほど惚れ込む美女のことです。
有名なところでは、古代中国四大美女といわれる楊貴妃・貂蝉・西施・王昭君が挙げられますが、日本でも、古くは飛鳥時代の歌人で、天智天皇と天武天皇が奪い合ったともいう額田王も、大変な美女であったとされています。
そして、平安時代末期の女性・常盤御前(ときわごぜん)も、「京の都No.1の絶世の美女」との誉れ高い人でした。
現代では、類稀なる美貌の女性は、本人が望めばその容色を生かした華やかで恵まれた人生を歩むこともできるでしょう。
しかし、平安末期に生きた常盤御前は、美貌が仇となり、愛する夫を殺した憎むべき好色の権力者に狙われ、女性として屈辱を受け入れざるを得ない悲劇的な運命を辿った……という伝承があるのです。
目次
京の都で集めた美女1000人中のナンバーワン
常盤御前が誕生したのは、今から約900年前の1138年(保延4年)頃でした。
両親については素性が不明ですが、『平家物語』『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく/日本の初期の系図集)』などによると、常盤御前は近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女(ぞうしめ/召使)であったと記されています。
雑仕女の採用には京の都から美女一千人が集められ、オーディションのように選考が行われました。最終的に選ばれた10名の中で、最も聡明で群を抜いて美しかったのが常盤御前でした。
宮中に入った常盤御前は、清和源氏の棟梁である源義朝(よしとも ※頼朝の父)と出会い、16歳頃に彼の側室となりました。
そして、義朝との間に七男の阿野全成(幼名:今若丸)、八男の義円(幼名:乙若丸)、そして1159年(平治元年)には九男の源義経(幼名:牛若丸)をもうけたのです。
ここまでは、聡明さと美貌から源義朝に寵愛され、可愛い3人の子どもに恵まれ、順風満帆な幸せそうな暮らしぶりがうかがえるのですが、常盤御前には悲劇の運命が待ち構えていたのでした。
夫・源義朝が平清盛に敗れて運命が一転
1156年(保元元年)、崇徳上皇と後白河天皇の皇位継承をめぐる争いが原因で「保元の乱」が勃発しました。
この対立は、源氏・平氏・藤原氏の一族内の争いも巻き込みました。当時、後に敵対することになる源義朝と平清盛は、同じ後白河天皇側に付き、勝利を収めます。
その後、源義朝と平清盛が政権をめぐって争い、常盤御前が源義経を出産した1159年(平治元年)12月に「平治の乱」が発生しました。
この乱の原因には諸説ありますが、一説には保元の乱後の恩賞分配に不公平があり、義朝が不満を募らせたためとも言われています。
義朝は、後白河上皇の側近で平清盛をえこひいきしていた貴族で僧侶の信西(しんぜい)を敵とみなし、同じ考えを持つ藤原信頼と共に兵を挙げました。
平清盛が熊野詣で京都を留守にしていた間に、信西が居た「三条東殿」を襲撃し、一時は優勢となります。しかし、京都に戻った清盛に逆襲され、義朝は大敗しました。
義朝は本拠地である鎌倉で再起を図るため、東国へ落ち延びようとしましたが、身を寄せた先の長年の家人であった親子に裏切られ、殺害されてしまったのです。
極寒の雪の中、乳飲子と幼子3人を抱えて逃亡の旅へ
義朝亡き後、謀反人の妻と子供として追われる身となった常盤御前は、幼い3人の子ども(一人はまだ乳飲子だった牛若丸)を抱えて、雪の降る中を、生まれ故郷の大和国へと逃亡します。
この場面は、リアルな場面が浮かびやすいからでしょうか。
さまざまな画家が、乳飲み子の牛若丸を懐に抱き、幼い子どもたちを連れて逃げる常盤御前の作品を残しています。
いずれも、寒さ、悲しみ、そして幼子を守ろうとする固い決意が伝わってきます。
歌川国芳の「賢女烈婦伝」「常盤御前」では、厚手の道行のような着物を羽織り、懐をかき合わせて身を屈めている常盤が、一人で逃げているかのような構図で描かれています。
しかし、足元の裾が割れたところから、小さな下駄を履いた子供の足が二人分のぞいています。
この二人の子供は、今若丸と乙若丸です。
懐には乳飲み子の牛若丸が抱かれているのでしょう。常盤の心情が胸に刺さるような絵です。
常盤御前に関する記述の中で最も古いとされる『平治物語』には、寒さに震える常盤たちを見かねて宿を提供し、出発の際には馬鞍を整えて乗せてくれ、さらには下人もつけて送り出してくれたという「名もなき女房」についての記述があります。
こうして、ようやく常盤は生まれ故郷の大和国にたどり着きますが、そこで都に残った自分の母が捕まったという話を耳にします。
「母を救わん」と決意した常盤は、故郷を後にして平清盛の元へと出頭したのでした。
夫を滅ぼした宿敵に母と子たちの命乞いを
常盤御前は、母の助命を願うとともに、「子どもが殺されるのを見るのは忍びない。どうか先に私を殺してください」と、平清盛に懇願しました。
当時、常盤御前は22歳頃で、京都1000人の美女たちの中でナンバーワンを誇る美貌を持っていました。
3人の子どもを出産し、逃亡の身で疲労は見られたものの、その美しさは少しも衰えることなく、輝いていたといいます。また、清盛に媚びることなく毅然とした態度を保っていました。
平清盛は、常盤御前の美しさや毅然とした振る舞いに心を奪われたのか、母親と3人の子どもの助命を聞き入れました。
清盛が常盤たちを助命した明確な理由は不明ですが、さまざまな説があります。
・交換条件として常盤に妾になることを求めた。
・既にもっと罪の重い、頼朝の助命が決定していた。
・乱の真の首謀者は藤原信頼で、義朝は巻き込まれただけに過ぎず、そもそも義朝はたいした勢力ではなかった。
軍記物語の『平治物語』『平家物語』などによれば、その後、常盤は清盛の妾となって一女をもうけたものの、2人の関係は数年で破綻してしまったと伝えられています。
ただし、これらは史実としては確認されていません。
謎に包まれた、その後の常盤御前
清盛と別れた後、常盤御前は藤原長成(一条長成)のもとに嫁ぎ、一条能成(のちに義経の側近となる)を含む数人の子どもを、さらにもうけたという逸話もあります。しかし、その後の常盤御前がどのように生き、どんな最期を迎えたのかについては、明確に裏付けのある史料は存在していません。
能成のもとで静かに余生を過ごした、可愛がっていた義経を追って奥州に向かう途中で賊に襲われて命を落とした、などさまざまな逸話が残されています。
彼女は位の高い家の出ではないものの、10代で平安時代のミスコン女王に輝くという華やかな宮中デビューを果たし、その後、3人の子をもうけ、一時は順風満帆な人生を送っているかのように見えました。
しかし、突然逆賊の家族となり、雪の中での逃亡を余儀なくされ、夫を殺した憎き仇の妾となる・・・このようなストーリーが常盤御前にまつわる多くの作品の元となっています。
常盤御前が、類まれなる美貌と知性に恵まれながら、波瀾万丈な人生を送ったことは事実でしょう。その生涯には、母親としての強さとともに深い悲哀が漂っています。
参考:
常盤の物語について(甲南女子大学学術情報リポジトリ)八木直子著
平治物語絵(常盤巻)について 真保亨
義経伝説と歌舞伎 牛若丸の命拾い~常盤御前と宗清
文 / 桃配伝子
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