木曽義仲が愛した美しき女武者たち
平安時代末期、平氏を都から追い、一度は京都を制圧した源氏の武将・木曽義仲。
彼には、巴御前・山吹御前・葵御前という、日本史上に燦然と輝く3人の便女(びんじょ)がいたとされます。
ちなみに便女とは、元来は召使い、あるいは美女などの意味がありましたが、彼女たちは、義仲の愛妾でありながら、戦いになると一手の軍勢を率いて戦う、部将としての役目を担っていたと考えられています。
3人の中で一番有名なのは、巴御前です。彼女は、義仲を育てた中原兼遠の娘とされ、義仲と兄弟同様に育ったといわれています。
『平家物語』によると、美人でありながら大力と強弓の女武将として描かれ、いつも義仲の側に付き従っていたようです。
そして、義仲が京都において、源頼朝の追討軍と戦った宇治川の決戦でも奮戦しました。
しかし、義仲は戦いに利あらず散々に敗れ、剛勇を誇った木曽軍も、ついに主従5騎ほどに減ってしまいます。
その中に、巴は生き残っていました。ここにおいて死を覚悟した義仲は、巴に対し、落ちのびるよう命じます。
巴は、義仲の必死の願いを聞き入れ、最後の奉公として、源氏方の猛将と一騎打ちの末、いとも簡単にその首をねじ斬って捨ててしまいました。
この後の巴の消息については、『平家物語』は「東国に逃れた」とのみ記し、最終的な消息は伝えていません。
巴の働きぶりを見た頼朝の有力御家人である和田義盛は、彼女にほれ込み結婚し、朝比奈義秀という剛の者を生んだという伝説も残っています。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、この伝説を採用していたのは、まだ記憶に新しいのではないでしょうか。
海野氏出身ともいわれる山吹御前
さて、今回は有名な巴御前ではなく、もう一人の便女・山吹御前にスポットを当ててみましょう。
山吹御前は、信州の有力武士団である海野氏の出という説があり、名のある豪族の娘と考えられています。
この当時、地方の有力武士の娘たちのなかには、男子同様に幼い頃から弓や剣、薙刀などの武術を習得していた者が少なくなかったとされます。
平安末期から鎌倉時代にかけては、女性の地位は高く、所領の継承権も持っており、女性の地頭も存在していました。
ですから、男性の留守中に領地や居館が敵に攻められた時に、彼女たちは兵を指揮し、武器を手にして戦ったのです。
山吹は、巴同様に義仲の側に侍り、戦いでは軍勢を率いて敵と刃を交えていました。
悲劇的伝説が伝わる山吹の最後
山吹御前は巴とともに義仲に従って京都に入りましたが、義仲最期の時には病のために同行できなかったと『平家物語』に記されています。
山吹の消息についても、後世に様々な伝説が生まれました。
そんな伝説の中の一つに、「なんとしても決戦の場に行きたいと病を押して義仲を追ったものの、近江国大津で力尽き、源氏軍に討たれた」というものがあります。
哀れに感じた民衆がその地に地蔵尊を祀り、その霊を弔ったとされ、今もJR大津駅にその祠が残されています。
また、義仲が伊予守であったため、その縁を頼りにわずかな家臣たちと伊予国に落ち延びたものの、病が悪化し、まもなくこの世を去ったという伝承もあります。
実際に、山吹終焉の地(伊予市中山町佐礼谷)には、山吹御前神社が鎮座し、地元の人々から「御前さん」と親しまれているのです。
近くには山吹という名の集落があり、墓も存在しています。
息絶えた山吹の亡骸を笹舟で運んだことから「曳き坂」という地名も残っています。
山吹は義高の母として生き延びた
先にあげた2つの伝説は、山吹にとっては悲劇的なものです。
しかし、一つだけ「彼女が生存した」という伝説が残っています。
それが、義仲の誕生の地・埼玉県比企郡嵐山町に伝わる伝承です。
この地に山吹を開基とする、班渓寺(はんけいじ)という寺院があります。
その梵鐘には「妙虎大姉が、我が子義高の菩提を弔って、この寺を建てた」と刻まれており、その位牌も安置されているとされます。
ちなみに、妙虎大姉とは、山吹御前の法名です。
そして、義高は義仲の嫡男で、頼朝の長女大姫と婚約し、人質として鎌倉に暮らしていました。
しかし、頼朝と義仲が争い、その没後、頼朝により殺害されてしまいます。
班渓寺によると山吹は義高の母であり、生き延びて義仲の故地に確かな足跡を残していたことになるのです。
巴御前と比べると決して有名ではない山吹ですが、歴史の一場面を華やかに彩った女性であったことは間違いないでしょう。
文・写真 / 高野晃彰
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