1949年(昭和24年)、小田原の風呂屋で、一家5人が惨殺される事件が起きました。
犯人は当時18歳だった少年Sこと、杉山優。
杉山は殺人罪で死刑となりますが、判決を言い渡したのは、朝ドラ「虎に翼」の主人公モデル三淵嘉子の夫、三淵乾太郎(けんたろう)裁判長でした。
死刑反対論者の三淵は、拘置所の杉山に私人として面会し、控訴するように説得しています。
死刑判決は覆ることがなかったものの、恩赦による減刑に恵まれ、仮出所も叶った杉山でしたが、最後は獄中へと戻っています。
二転三転した杉山の人生とは、どのようなものだったのでしょうか?
女湯のぞきを注意され、5人を惨殺
「小田原一家5人殺害事件」の犯人、杉山優は、1931年(昭和6年)5月2日、横浜で生まれました。
両親と死別した後、弟と二人、小田原の叔父の家に引き取られ、旋盤工として町工場で働いていました。
もともと素行は良くなかったようで、1947年(昭和22年)に窃盗で逮捕されており、事件を起こした1949年は仕事を解雇されて無職でした。
杉山が弟と暮らす部屋は、隣家の銭湯「田浦湯」に面していました。
事件の3ヶ月前、「田浦湯」の主人は、杉山が二階の部屋から女湯を覗き見しているのを発見します。
主人は杉山を注意し、「のぞき」の防止策を講じました。
自身の行為をとがめられ、さらに女湯を覗けないようにされたことに腹を立てた杉山は、風呂屋の主人殺しを決意。
事件1か月前に、刃渡り20㎝の肉切り包丁を購入し、機をうかがっていました。
1949年9月14日の深夜1時、肉切り包丁と薪割り用の鉈(なた)を手に、杉山は「田浦湯」1階の浴場通用口から侵入します。
まず、六畳間で寝ていた主人(45歳)とその妻(42歳)、妻の母親(80歳)の頭部に鉈を振り下ろし、即死させました。
さらに8歳と3歳の子ども2人を殺害し、18歳の長女の顔面と後頭部を包丁で切りつけました。
幸い長女は重傷を負いながらも、一命を取り留めています。
一連の凶行に要した時間は約40分。
タンスから600円を奪って家に戻った杉山は、犯行の一部始終を叔父に打ち明け、同日9時30分に足柄警察署へ自首しました。
死刑を求刑後、控訴を勧めた三淵乾太郎
1949年(昭和24年)10月、横浜地裁小田原支部で「小田原一家5人殺害事件」の裁判が始まり、翌年1月26日、死刑判決が言い渡されました。
杉山は「罪を償う」ため控訴を取り下げようとしましたが、一審で判事を務めた三淵乾太郎は拘置所に赴き、控訴を勧めました。
死刑判決を出しておきながら、控訴を勧めた理由について、
・三淵は、死刑反対論者であること
・裁判官としては、自分の心情だけで死刑宣告を拒否することは許されないものの、三淵個人としては死刑囚の立場にも同情するところもあること
・特に、杉山が年少であるところに問題があること
の3つを、三淵は新聞に語っています。
三淵の説得に応じて杉山は控訴しましたが、1951年(昭和26年)3月、東京高裁は控訴を棄却、同年9月6日、最高裁が上告を棄却し、杉山の死刑が確定しました。
余談ですが、重刑である死刑宣告に慎重でありたいと考える裁判官は、控訴を勧めることがあるようです。
2001年6月にも、宮崎地裁で行われた強盗殺人事件の裁判で、裁判長が犯人に死刑判決を言い渡したあと「控訴し、別の裁判所の判断を仰ぐことを勧める」と付言しています。
恩赦によって、無期懲役に減刑され仮出所になるも再び獄中へ
1951年(昭和26年)8月にサンフランシスコ講和条約が締結されると、「平和条約発効恩赦」が実施され、杉山も恩赦の対象となります。
1952年(昭和27年)9月23日付で、死刑から無期懲役に減刑された杉山は当時21歳。
その後、宮城刑務所で模範囚として認められ、38歳で仮出所となりました。
出所した杉山は支援者に恵まれ、刑務所で覚えた技術を生かし、都内の印刷会社に就職します。
横浜市のアパートに住み、腕のいい印刷工として働いていましたが、杉山は、1984年(昭和59年)7月8日に再び事件を起こしたのです。
事件の2ヵ月前から、杉山は家出中の13歳の少女Aと同棲していました。
当時53歳の杉山と、13歳の少女の同棲生活は想像さえできませんが、杉山は少女にお菓子や衣服などを与えていたようです。
しかし、年の差40歳カップルの同棲生活は、すぐに破綻を迎えます。
犯行当日、A子はアパートを飛び出し、杉並区にある友人B子(14歳)の家へと転がり込みました。
諦めきれずB子の家を訪れた杉山は、A子に戻るよう懇願しましたが、「歳が違いすぎる。もう別れる」と聞く耳を持ちません。
B子の家に遊びに来ていた同級生からも「おじさん帰れよ。A子はおじさんのことは嫌いなんだよ」と詰め寄られます。
杉山は激昂したものの、なんとか気持ちを抑え、16時ごろにB子の家をあとにしました。
ちなみに同級生たちは、杉山を「A子の親戚のおじさん」と思っていたそうです。
杉山の怒りは収まらず、駅に向かう途中で、刃渡り10㎝の登山ナイフを購入。18時ごろ駅前の公衆電話から「別れるから、最後の話をしたい」とA子を呼び出しました。
B子とともにやって来たA子との話合いはものの5分で終わり、少女二人は歩道橋を渡り始めます。
そして、杉山は二人の背後から近づき、用意していた登山ナイフで少女たちを刺して重傷を負わせ、逃走しました。
翌日の午前2時、横浜の自宅アパートに帰宅したところを緊急逮捕された杉山には、殺人未遂罪で懲役8年の実刑判決が下りました。
無期懲役と懲役8年の刑で宮城刑務所に移送された杉山のその後は、明らかになっていません。
さいごに
死刑囚でありながら、恩赦という好機に恵まれ、模範囚として仮出所まで認められたにもかかわらず、激昂して抱いた殺意を抑える力を杉山は身につけることはなかったようです。
血塗られた彼の人生の中にも、少年死刑囚に同情した判事や仮出所後の支援者など、手を差し伸べてくれた人はいたのです。
しかし、その手を振りほどき、踏みにじったのは、他でもない杉山自身だったのでした。
参考文献:斎藤充功『恩赦と死刑囚』.洋泉社
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いかれた犯罪者は出てもまた似たような犯罪起こすから出さないか殺しきれ、って事だろ。