徳川家康が壮年期に築城し、晩年(66〜75歳ごろ)の隠居所として過ごした「駿府城(すんぷじょう)」。
現在では、本丸と二の丸の城跡が「駿府城公園」として整備されています。静岡市街の中心というアクセスのいい場所にあり、春の桜を始め四季折々の花々や緑も美しく、観光名所として、市民の憩いの場としても有名です。
実は、今から400年以上前、この駿府城で隠居生活を送っていた家康のもとに、ある日突然、宇宙人とも妖怪ともつかない異形の「肉の塊」が出現したという、不思議な伝説が伝えられています。
この「肉人」と呼ばれた異形のモノは、一体何だったのでしょうか。
突然庭に現れた肉の塊「肉人」に遭遇
文化7年(1810年)、尾張藩の儒学者である秦鼎(はた かなえ)が著述し、弟子で絵師の牧墨僊(まき ぼくせん)が挿絵を手がけた随筆集『一宵話(ひとよばなし)』が発行されました。
その『一宵話』の中の「異人」という章には、「ある日突然駿府城に現れた、異形のモノ」に関する記述があります。
目の前に現れた「異人」の話
それは、慶長14年(1609年)の4月4日の朝のこと。
すでに隠居の身となった家康が暮らす駿府城の庭に、突然異形のモノが出現しました。
(原文)
神祖、駿河にゐませし御時、或日の朝、御庭に、形は小児の如くにて、肉人ともいふべく、手はありながら、指はなく、指なき手をもて、上を指して立たるものあり。(意訳)
家康が駿府に在城していた頃、ある日の朝、子どものような大きさで、「肉人」とでもいうようなものが現れ、指のない手で天を指して立っていた。
子どもくらいの大きさで、指のない手で天を指して立っている「肉人」……想像しただけでもなんとも不気味です。
その肉人が言葉を発したのかどうかはわかりませんが、その姿を見た城の者たちは驚愕し、「なんだあれは!」「妖怪か?」「ばけものか?」と大騒ぎになりました。
その騒ぎが耳に入った家康は、すぐに駆けつけました。
家臣が「あの化け物をいかがしましょうか?」と問うたところ、家康は「人がいない場所に追い払え!」と命令し、家臣たちは「肉人」を城から離れた山のほうへと追いやったそうです。
「肉人」は、食べれば力が付く薬?
「指のない手を持つ肉人」とは、いったい何者だったのでしょうか。
その謎に関しては以下の記述があります。
(原文)
或人、これを聞て、扨も扨もをしき事かな。左右の人達の不学から、かかる仙薬を君には奉らざりし。此は白沢図(ハクタクズ)に出たる、封といふものなり。
此を食すれば、多力になり、武勇もすぐるるよし見えつるを、縦(ヨシ)君には奉らずとも、公達又群臣迄も、たべさせ度ものを、かへすがへすも其時、ものしり人のなかりしからなりと、をしがれど(意訳)
ある人が、この肉人の話を聞きつけ「それは残念なことをした。家康公の側に仕える人たちが無知なあまりに、これほどの仙薬を家康公に差し上げることができなかったとは。あの肉人は古代中国の『※白沢図(はくたくず)』に登場する「封(ほう)」というものだ。あの肉人を食べれば、力や権力が増大し、武勇にも優れるというものなのに。
なぜ、捕まえて主君に食べさせなかったのだ!主君が食べなくても家来が食べれば力が付きお役に立つというのに。かえすがえすも残念なことを……」※白沢図とは、古代中国の伝説上の君主・黄帝が神獣白沢の言葉を記録し編んだ「禍を避け福を招く辟邪呪術」を伝えるという幻の書物
と悔しがったと書かれています。
その「ある人」が誰なのかは定かではありませんが、正体不明の肉人を料理して食べるとは、いくら『白沢図』に書かれているからといっても、あまりにも無茶で野蛮な行為のように思えます。
著者の秦鼎は、儒学者らしく
「家康公や家臣たちは異形のモノを食べずとも、もともと武勇に優れている人々だ。当然、『白沢図』に書いてある「封」のことも知っていたが、そんなモノの力を借りてまで強くなるのは卑しい振る舞いと考えたので、捕まえて食べるようなことはせず、山に追いやったのだろう」
と述べ、食べなかったことを惜しむ人々に対して戒めの言葉を残しています。
「肉人」の正体とは
家康が遭遇した「肉人」は、本当に『白沢図』に登場する力や権力をもたらしてくれる「封」だったのでしょうか。
そうだとしても、さまざまな謎が残ります。
厳重な警備体制の目をかい潜り、どうやって城内の庭に現れることができたのか?
なぜ、手に指のない肉の塊なのか?
なぜ、空を指して立っていたのか?
著者の秦鼎は、「異人」の締めくくりとして、以下のような文を書いています。
(原文)
此怪物は、切支丹なり。逐やれと仰れしといふにて、封とは形ことなり。
封はツトヘビ、ソウタの類ならん。(意訳)
この怪物は、キリシタンである。家康公が追い払えと仰せになったとのことだが、「封」とは形が異なる。
封は、ツチノコなどの類である。
秦鼎は、「封」はツチノコのような姿で、肉人はキリシタンだと記述しています。
なぜキリシタンだと思ったのかは不明ですが、異質なモノは外国人で、キリシタンはさらに不思議な何かがあると考えたのかもしれません。
徳川幕府の公式記録にも記載された「肉人事件」
実はこの話は、徳川幕府の公式史書『※徳川実紀(とくがわじっき)』にも記載されています。
※徳川実紀とは、徳川家康から10代将軍・家治までの事績を編年体にまとめ、各将軍ごとに逸事を記した付録、総計517冊。
その内容は、意訳すると以下となっています。
「手に指のないボロを纏った乞食が駿府城の庭に現れたが、家康公は斬らずに追い出した」
「乞食」ということは、まるで人だったかのような表現ですが、人だったとすると「警備の目が厳しい駿府城の庭に、誰にも見咎められることなく、どうやって家康の前に姿を現せたのか?」という謎が残ります。
実は、この『徳川実紀』の記述に関しては、「異形のモノを無防備にも城内に入れてしまったこと、驚いて大騒ぎになったこと、捕まえずに追い払ったことは武士としての体裁が悪いため、そのように書かれたのだろう」という意見もあります。
また、『徳川実紀』には、肉人が現れた日に「雲が発光した」という記述もあるため、肉人が手で空を指していたポーズも含め、「肉人はUFOに乗ってやってきた宇宙人だ」といったトンデモ説まであります。
妖怪「ぬっぺふほふ」「のっぺらぼう」
駿府城で肉人が発見されて以来、その異型の存在は人々の間で大きな関心を呼んだようです。
江戸中期の浮世絵師で、妖怪画を数多く残した鳥山石燕(とりやま せきえん)が描いた『画面百鬼夜行』に登場する「ぬっぺふほふ」は、『一宵話』に登場する肉人を彷彿させます。
さらに、同じく江戸時代中期の絵師・佐脇嵩之(さわき すうし)も、『百怪図巻』のなかで「ぬつへつほう」という名前で、同じようなルックスの妖怪を描いています。
両方とも、ぶよぶよと肉がたるみ、顔と胴体が一体化した体に短い手足がついています。
天明元年(1781)に刊行された洒落本『新吾左出放題盲牛』(しんござでほうだいもうぎゅう) には、以下のような不気味な記述があります。
「ぬっぺっぽうといふ化けもの有り。目もなく耳も無く」
「死人の脂を吸い、針大こくを喰う。昔は医者に化けて出てきたが、今はそのまま出てくる」
時を経た現代でも人気があり、水木しげる作品にも登場しています。
鳥取県境港市本町にある「水木しげる記念館」には、鳥山石燕や佐脇嵩之が描いた絵とそっくりな「ぬっぺっぽう」が展示されています。
館内の「妖怪洞窟」に潜み、屍の匂いを漂わせながら夜の街を徘徊している妖怪として紹介されています。
終わりに
家康が遭遇した肉人の正体は、「封」だったのか、「宇宙人」だったのか、妖怪「ぬっぺふほふ」だったのか、未だに真相は不明です。
江戸時代の絵師たちは、言い伝えられていた肉人の逸話にインスピレーションを得て「ぬっぺふほふ」の作品を残したのでしょう。
現代においては、鳥山石燕や佐脇嵩之が描いた肉人のルックスが「きもかわいい」と評判で、ぬっぺふほふ展が開催されたり、フィギュアやおもちゃが作られたり、LINEスタンプになったりと人気があります。
死臭漂う不気味な妖怪とされながらも、妙に愛されているのが興味深いところです。
参考:
一宵話 秦鼎・牧墨僊 愛知県図書館貴重和本デジタルライブラリー
歴史人物怪異談事典 朝里樹
水木しげる記念館 身近なところにひそむ妖怪たち
文 / 桃配伝子
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