フランチェスコ、もしくはフランシスコという名は、どこかで耳にしたことがある方も多いかもしれません。
聖フランチェスコは、中世イタリアに生きた最も著名な聖人の一人で、彼が礎を築いたフランシスコ会は、現在でも世界中で活動を続けています。
生前、布教に身を捧げた彼の姿は、「神の道化師」と称されることもありました。
今回は、そんな彼の生涯をたどってみましょう。
意外と普通だった青年時代
聖フランチェスコこと本名ジョヴァンニ・ベルナルドーネは、1181年または1182年、イタリア中部のウンブリア地方アッシジで生まれました。
彼の父はフランスとの貿易をしていた裕福な商人で、母はフランス生まれの女性だったと伝えられています。
当初、フランチェスコは「ジョヴァンニ」という洗礼名を与えられましたが、父親がフランスを好んでいたことや、フランスとの商取引の成功を祝して、やがて「フランチェスコ(フランス風の者)」と呼ばれるようになりました。
こうして、両親のもとで何不自由なく育てられた青年フランチェスコは、華やかな服装や散財を好み、享楽的な生活を送っていました。
しかし、この当時の政情は不安定で、ドイツ勢力の神聖ローマ皇帝とローマ教皇との間で権力争いが起きており、それに巻き込まれる形で小国家の体を形成しつつあったイタリア各都市も、近隣間で衝突を繰り返していました。
フランチェスコが暮らすアッシジもその影響を受け、戦いが避けられない状況にあったのです。
そこで成人したフランチェスコは名誉を得ようと、意気揚々と従者を引き連れ隣国ペルージャとの戦争に参加しました。
しかし、アッシジは敗北し、フランチェスコは捕虜としてペルージャで投獄生活を送る羽目になります。
当時、戦争に勝利した側は、捕虜を身代金と引き換えに解放することが一般的でした。
フランチェスコも一年以上にわたる捕虜生活のあと、和議が成立し、ようやく解放されたのです。
「不思議な声」を聴いて人生が一変
それでもフランチェスコは挫けず、1205年、今度は南イタリアのプーリアに向かう遠征軍に加わることを決意しました。
しかし、遠征の途中で立ち寄った街スポレートにて、フランチェスコは不思議な声を聴いたのです。
その声は、彼に「どこへ向かおうとしているのか?」と問いかけたといいます。
それまで戦で名を上げようと考えていたフランチェスコでしたが、この声に導かれるように、突然南進を止めて引き返してしまったのです。
この出来事をきっかけに、フランチェスコの人生は大きく変わります。
もともと世俗に生き、野心を持つ一青年であった彼が、突如として自らの持ち物全てを貧しい人たちに分け与え始めたのです。そして、持ち物が尽きると、今度は実家の家財道具や商品まで売り払い、人々に差し出してしまいました。
この急激な変化と無謀とも思える行動に、父親は怒りを爆発させました。父はフランチェスコに対し「今までお前に与えたものを全て返せ!」と憤慨しました。
しかしフランチェスコは、全く怯むことなく、自分の持ち物をすべて地に置き、さらには着ていた衣服まで父に返して、親子の縁を断ち切ってしまったのです。
「神の道化師」として
その後、フランチェスコは、粗末な布切れを身に纏った姿で、ハンセン病をはじめとする病に苦しむ人々を献身的に看護しました。
また、郊外にある方々の荒れ果てた教会を、たった一人で修復し始めたのです。
最初のうちは、多くの人々がそんなフランチェスコを面白おかしく見ていましたが、彼の熱意と誠実な姿勢に心を打たれる者たちが次第に増えていきました。
そして26歳の頃、フランチェスコは神の教えを説くための宣教を行い始めました。
彼は高等教育こそ受けてはいませんでしたが、少年時代から聖職者たちが使うラテン語を学んでいました。しかし、あえてラテン語を使わず、多くの人々にとって分かりやすいイタリア語で聖書の教えを伝えたのです。
さらに、フランチェスコの宣教の巧みさは、単なる言葉だけではありませんでした。時には歌や音楽を説話に交え、人々の心を捉えていったのです。
フランチェスコのそうした姿と活動を目の当たりにした人々は、次第に彼を「神の道化師」と呼ぶようになりました。
【従順・純潔・清貧】
肉親と絶縁し、当初は世間からも奇異な目で見られていたフランチェスコでしたが、彼の元には考えと行動を共にしたいと願う人々が、さらに集まるようになっていきました。
そして28歳の頃、フランチェスコは11名の弟子たちを伴い、ローマへ赴きます。
この時、彼らは教皇イノケンティウス三世と謁見しました。
フランチェスコ一行はやせ細り、粗末な衣服をまとっていたため、教皇は一瞬戸惑いましたが、最終的には修道会設立の認可を与えました。
後にフランチェスコ修道会として知られるようになる、この「小さき兄弟団(Ordo Fratrum Minorum)」は、私有財産を放棄し、武力を用いないという徹底した姿勢を貫いていました。
彼らのモットーは、「従順・純潔・清貧」であり、祈りと奉仕に全てを捧げる生活を送りました。所有を放棄することは、彼らにとって大きな美徳とされており、この考えは彼らの簡素な服装にも表れています。
彼らが身に着けていたものは、粗末な茶色の布やなめし皮に、縄のベルトという非常に質素なものでした。
当時のベルトは通常、財布や剣を吊るすために革や金属で作られていましたが、あえて縄を使うことで「私有財産と武力を棄てる」という意思を強く示したのです。
徹底的に身一つを貫き通すフランチェスコの熱意と行動力は、まさに神がかったものでした。
自らは貧しい小屋に住みながら、ハンセン病患者のための療養院を作り、彼に従う者たちと共に看病、奉仕、肉体労働と托鉢を行いながら神の教えを説いて回りました。
フランチェスコの熱意は驚異的で、十字軍による戦争を終わらせることにも挑戦しました。
彼は、イスラム教徒をキリスト教に改宗させるため、無防備な状態で命の危険も顧みず、遠くシリアやエジプトにまで布教に赴いたのです。
死の床につく
イタリアに戻った後も、フランチェスコの元には彼を慕う人々が各地から集まりました。
26歳の時にたった一人で始めた活動は、わずか20年足らずの間に、ヨーロッパ中に数万の修道士と千以上の修道院を抱える、大所帯となっていたのです。
しかし、長年の激務と粗末な食事による影響で、フランチェスコの体は次第に蝕まれていきました。
そして43歳という若さで、彼は天に召されたのです。
フランチェスコの死後、彼を称える動きは驚くほど迅速に行われました。
通常なら数十年を要する列聖の手続きが、わずか2年のうちに完了し、彼は聖人として認められました。
彼の遺骸を祀るために建てられた教会もまた、異例の速さで完成しました。
中世ヨーロッパでは、教会の建設には数十年から100年を要することも珍しくありませんでしたが、フランチェスコの遺骸を祀るための教会は、わずか4年で完成しました。さらに、彼の生涯を描くためにイタリア中から著名な画家たちが集められたのです。
生前、あれほどまでに清貧を説いたフランチェスコがこれを知ったのなら、何を説いたでしょうか。
しかし今日もなお、彼を偲んでアッシジを訪れる者が絶えないことを思えば、「神の教えを人々に届けたい」という切なる願いは、天に届いたのかもしれません。
参考文献:『イタリア 24の都市の物語』池上 英洋/著
文 / 草の実堂編集部
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