中国の人口
現在、中国の人口は約14億人であり、長年世界最多の人口を誇っていた。現在ではインドが最多人口となり、中国はそれに次ぐが、それでもその数は世界的にも膨大である。
かつて中国政府は人口の増加を抑制するため、「一人っ子政策」で子どもを一人に制限していたが、少子化と高齢化の加速により、現在この政策は廃止され、今ではむしろ出生率を上げるための施策が行われている。
明朝時代、人口は約1.5億人ほどだったが、清朝の成立期には大規模な戦乱と疫病が重なり、なんと推定人口8800万人ほどと大激減している。
その中では『揚州十日』と呼ばれる虐殺も発生し、多くの命が奪われた。
その後、清朝の支配が安定すると、第4代皇帝・康熙帝(こうきてい)の下で改革が進み、第8代道光帝の頃には4億人に達した。
その要因として、主に三つが挙げられている。
① 人頭税の廃止
中国では、古くから「人頭税」が導入され、一人あたりの税金を定額で徴収していた。
このため、特に貧しい庶民にとっては、子供の数が増えるたびに税負担が重くのしかかり、子供を多く産むことが経済的な負担となっていた。
そこで、1711年に清朝の康煕帝は「地丁銀制」と呼ばれる新しい税制を導入し、丁税を地税に組み込んで徴収する形に改めた。
この制度では、土地の保有状況に基づいて税額が決まるため、土地を多く所有する者が多くの税を負担する一方、土地を持たない貧しい庶民や農民には、追加の税負担がかからない仕組みとなった。
「地丁銀制」の導入により、一般庶民は子供を多く産んでも税負担が増えないため、人口増加が促進されたのだ。
この改革は清朝の税制上の大きな転換点であり、後の中国の社会構造や人口動態に深い影響を及ぼした。
② サツマイモの導入
百姓たちは、度重なる農作物の不作に悩まされ、生活の困窮を余儀なくされてきた。
不作が続けば作物を売って生活するどころか、自分たちの食料すら不足し、死亡率も上昇の一途をたどった。
そんな中、1590年代にフィリピン経由で中国に伝わったサツマイモは、荒れた土地や痩せた土壌でもよく育ち、栄養価が高く、茎や葉も食用にできるという特徴を持っていた。百姓たちはサツマイモを主食の一部とし、食料不足に対処したのだ。
清朝初期には、特に福建省や広東省などの南部地域でサツマイモの栽培が盛んになり、飢餓対策として広く普及した。
さらに、サツマイモは米や小麦よりも手間がかからず、広範囲にわたる人口増加を支える一助となった。
百姓たちはサツマイモを売買することで生計も立てやすくなり、次第に社会全体に安定をもたらしていったのだ。
③ 社会の安定
『揚州十日』などの苛烈な戦乱を経て、清朝の支配が中国全土に浸透すると、国内は次第に安定期を迎え、農村部の生活も安定していった。
安定期に入ったことで、農民たちは将来に対する不安が減り、家族を増やすことにも前向きになった。
また、戦乱の影響を受けて移住を余儀なくされた人々が新しい土地で農耕を開始するなど、各地で農業が復興し、国全体で収穫が安定するようになった。
この結果、人口の増加が一層促進されたのである。
おわりに
こうして清朝は、初期の深刻な戦乱と飢饉から脱し、急速に人口を増加させた。
しかし、19世紀に入ると急増した人口が農村部の資源を圧迫し、貧困層の増加が進んだ。この人口圧力は、太平天国の乱や義和団事件などの内乱・反乱の遠因ともなり、清朝末期の社会不安に繋がったと考えられる。
清朝の成立期と末期の両方から、人口増加の意義と課題が学べるといえるだろう。
参考 : 『中国人口史』『揚州十日記』『ARGENPAPA | China and the Sweet Potato』
文 / 草の実堂編集部
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