毛沢東の女性関係
中華人民共和国の建国の父とされる毛沢東は、革命の指導者として世界的に知られる一方で、その私生活にも多くのエピソードが残されている。
その中には、中国当局にとって都合の悪い事実も含まれ、徹底的に隠蔽されてきた部分がある。
1994年、毛沢東の個人医師であった李志綏(り しすい)が執筆した回顧録『毛沢東私人医生回忆录(毛沢東の私生活)』が出版された。
この書籍には、毛沢東の私生活やその裏側について赤裸々に記述されており、その内容の衝撃度から中国国内では発売禁止となった。
李医師の記録によれば、毛沢東は巧妙かつ冷酷な政治手腕を持つ一方で、乱れた性生活を送っており、この暴露は国内外で大きな反響を呼んだ。
李の証言によると、毛沢東が関係を持った女性は、兵士、女優、映画スター、政府高官など多岐にわたり、その数はなんと「数千人」ともされている。(この表現は中国語の直訳によるもの)
毛にとっては、その奔放な性生活はまるで「水を一杯飲むかのように、とるにたらない出来事」であったという。
その一方で女性たちは、情報漏洩を防ぐために遠隔地に追放されるなど、過酷な処遇を受けることもあった。
今回は、その中でも注目すべき2人の女性を取り上げてみたい。
馮風鳴(ふう ふうめい)
馮風鳴(ふう めいめい)は、南洋から中国に渡った華僑であり、その美貌と演劇の才能で広く知られていた。
彼女は延安評劇院で女優として活躍し、演技力と美貌から「四大美女」の一人に数えられた。
「四大美女」とは、彼女を含む馮風鳴、張醒芳、郭蘭英、孫維世の4人を指し、いずれも延安時代の京劇や演劇界を彩る存在であった。
ある日、毛沢東が「農村曲」という演劇を鑑賞した際、馮風鳴と数名の演劇仲間を夕食に招待した。
毛は「演劇について詳しく話をしたい」と彼女を個別に誘い出し、彼女もそれを了承した。
しかし毛はその場で彼女に暴力を振るい、強制的な行為に及んだという。
この出来事に深く失望した馮風鳴は、延安を離れる決断をした。その後の彼女の消息は不明であり、公の場から完全に姿を消した。
彼女がどのような結末を迎えたのかは、現在も不明である。
孫維世(そん いせい)
孫維世(そん いせい)は、革命烈士・孫炳文(そん へいぶん)の娘として1920年に四川省で生まれた。
孫炳文は1927年の上海クーデターで中国国民党に処刑され、その後、彼女は母と共に育てられたが、1936年に父の親友である周恩来と、鄧穎超夫妻に養女として迎えられた。
孫維世は幼少期から才能に恵まれ、モスクワ東方大学およびモスクワ芸術学院で演劇を学び、帰国後は演劇界で高い評価を得た。
1949年、毛沢東がソ連を訪問する際、孫維世はロシア語の通訳として同行を命じられた。
この旅の途中、毛は彼女を列車内に呼び出し、ロシア語の指導を口実に接近したとされる。
李志綏の証言によれば、毛はその場で彼女に対して強引に関係を迫ったという。
この出来事を知った周恩来は怒りを示したが、毛を咎めることはなく、事実を隠蔽するという選択を取ったとされる。
帰国後、毛は彼女との結婚を望んだが、周恩来の反対により実現しなかった。
一方、孫維世は俳優の金山と結婚するが、金山はかつて毛の妻・江青と関係を持っていたことでも知られていた。
文化大革命期の迫害と悲劇
孫維世はその後も演劇界で成功を収め、高い名声を得たが、毛の妻であり四人組の一人であった江青の嫉妬を煽る結果となった。
1966年に文化大革命が勃発すると、江青はその権力を利用して孫維世を標的とした。
彼女は逮捕され、北京の監獄に収容されたが、その環境は非人道的で過酷なものであった。
収容された部屋は、セメントの床に汚物が散乱し、まともな食事も与えられなかった。
提供される食物はカビの生えた米や泥水に近いスープであり、それを見た孫維世は「これは人間が食べるものではない!」と抗議したが、その後激しい暴行を受けたという。
さらに、囚人による暴行が命じられ、その後、彼女を傷つけた囚人には刑の軽減が与えられたとされる。
1968年10月14日、彼女は全裸の状態で遺体となり、手足には枷が掛けられ、頭には杭が打ち込まれていたと伝えられる。
当時、周恩来は中国政府の実質的なナンバー2として権力を持っていたが、文化大革命の混乱の中で彼女を救うことは叶わなかった。
彼女の死因や詳細については多くの議論が残っているが、その死は明らかに非人道的なものであったとされる。
また、孫維世の夫であった金山は、1976年に彼女の妹である孫新世と結婚した。この結婚は金山にとって4度目のものであった。
毛沢東と関係は「時限爆弾?」
毛沢東と関係を持った女性たちは、まるで「時限爆弾」を抱えさせられたかのような人生だったともいえよう。
その「爆弾」はいつ、どのような形で爆発するかは予測できない。
馮風鳴や孫維世といった女性たちは、権力の影で利用され、特に孫維世の最期は文化大革命という混乱の象徴的な悲劇となった。
毛自身にとっては些細な出来事であった女性たちとの関係も、彼女たちにとってはその後の人生を大きく左右する「罠」となったのである。
参考 : 『毛沢東私人医生回忆录』他
文 / 草の実堂編集部
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