「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」
この言葉を聞いて、どこの美食家や料理研究家のセリフかと考える人は少なくないだろう。
実はこの名言は、仙台藩を開いた奥州の覇者・伊達政宗が残した言葉である。
伊達政宗は武将としての戦いぶりや功績で名高いが、武道一辺倒ではなく、とても多趣味かつ多才な人物であったといわれる。そして多くの趣味の中でも特に料理には、並々ならぬ情熱を注いでいたという。
その熱中ぶりは、毎朝起きて支度を整えると閑所(トイレを備えた2畳ほどの部屋)にこもり、その日の献立を考えることを習慣とするほどだった。
今回は、戦国の料理男子・伊達政宗の料理にまつわる逸話に触れていこう。
伊達政宗が料理に目覚めたきっかけ
そもそもなぜ、伊達政宗は料理をするようになったのだろうか。それには彼の戦国大名という立場が大いに関係している。
戦において武器や鎧、馬より重視されるべきもの、それは食料である。
どんなに優れた武器や装備を備えていたとしても、それを使用する人間が空腹で動けなければ何の役にも立たない。
特に寒冷地である東北地方では冬場の農作が困難であり、一度不作や凶作が発生すれば人々は戦どころか、生命をかけて食うや食わずの生活を送らざるを得なかった。
戦時における食料確保を重要視した政宗は、他の戦国武将たちのように兵糧開発を家臣に命じるだけでなく、自ら台所に立って兵糧開発に乗り出した。
現在でも煮物などにして食される高野豆腐は、鎌倉時代の高野山の僧侶たちによって生み出された説や、中国から弘法大師により持ち込まれたという説などがある。
この高野豆腐と似た製法で作られる「凍み豆腐」を、政宗は兵糧として採用し、日常食としても好んだと伝わっている。
当時の凍み豆腐は、水切りした豆腐を自然の寒さで凍らせてから天日にさらして乾燥させたものであり、寒い地域でしか作ることができない食材だった。その点で東北地方の冬の厳しい寒さは、凍み豆腐製造にうってつけだ。
良質なたんぱく質や脂質が豊富に含まれる凍み豆腐は、現代でもその栄養価の高さに注目が集まる健康的な食材だ。さらに常温で保存が利き、携行もしやすいため、兵糧としても優れた食材である。
凍み豆腐は時代を超えて、大正~昭和時代の軍用食としても重宝された。
仙台味噌は伊達政宗が普及させた?
日本の伝統的な調味料である味噌は、地域ごとに色や味が異なる。
宮城名物の「仙台味噌」は、米麹と大豆を用いて作る辛口の赤味噌だが、調味料としてだけでなくそのまま食べても風味が良いので「なめみそ」とも呼ばれている。
日本三大味噌の1つともいわれるこの仙台味噌の普及にも、政宗は貢献した。
仙台味噌は関西で主流の白味噌よりも変質しにくい。
一説には、政宗が1593年の朝鮮出兵の際に持参した味噌だけが腐らず味も良かったため、他藩に請われて分け与えたことが仙台味噌の発祥といわれるが、仙台という地名が政宗によって1600年に名付けられたことから、この説は誤りであるとされる。
奥州特産の味噌が仙台味噌と呼ばれるようになった由来は、1626年に仙台藩の味噌御用によって国分町に「仙台味噌」の碑が掲げられたことが始まりといわれる。
その後、政宗は城下に大規模な「御塩噌蔵」を設置し、そこで仙台味噌は大量生産されるようになった。
やがて江戸大井の仙台藩下屋敷で、御塩噌蔵と同様の手法で製造されていた仙台味噌の一部が江戸の味噌問屋に払い下げられるようになり、仙台味噌は江戸市中でも名を馳せるようになったという。
政宗や伊達家にゆかりがある料理
仙台名物の「ずんだ」や「笹かまぼこ」もまた、伊達政宗にゆかりのある料理として一般的に知られている。
「ずんだ」という名前の由来には諸説あり、この名は政宗が出陣の折、「陣太刀」を用いて砕いた枝豆を食したという逸話にちなむという説がある。「陣太刀」は東北訛りで「じんだづ」や「ずんだづ」と発音されるが、これが転じて枝豆をつぶして餡状にしたものを「ずんだ」と呼ぶようになったともいわれる。
「笹かまぼこ」の発祥は戦国時代ではなく、明治時代に持て余すほどの大漁が続いたヒラメを加工して、かまぼこにしたことが始まりだ。
当初このかまぼこは「ベロ(舌)かまぼこ」や「手の平かまぼこ」などと呼ばれていたが、昭和に入ってから伊達家の家紋「竹に雀」になぞらえて、笹かまぼこと呼ばれるようになった。
おせち料理の定番である「伊達巻」もまた、政宗にちなんだ説がある料理だ。
政宗は卵にヒラメのすり身を混ぜて焼いた「平卵焼き」という料理を好んでいたといわれ、いつの頃からかこの料理が「伊達焼」と呼ばれるようになり、そしてこの伊達焼を巻き簀で巻いたものを「伊達巻」と呼ぶようになったという説がある。
政宗の命日である5月24日は「伊達巻の日」に制定されている。
その巻物のような形になぞらえて、おせちの伊達巻には縁起物として「知恵が増える」という意味がある。
正月には伊達巻を食べながら、伊達巻に関するうんちくを語ってみてはいかがだろうか。
自ら考えた献立で将軍をもてなす
伊達政宗の料理にまつわる逸話の中でもよく知られているのが、徳川第2代将軍徳川秀忠と、第3代将軍徳川家光を料理でもてなした話だ。
戦国の世が終わり兵糧開発の必要性はなくなったが、政宗は自ら腕をふるい美食を追求することに目覚めた。そして料理研究で鍛えた腕を、政治の場でも発揮させたのだ。
1628年、政宗は江戸の仙台屋敷に徳川秀忠を招き、もてなしの膳を秀忠の前に自ら運ぼうとした折に、秀忠の側近に「伊達殿に毒見をしてほしい」と止められた。
それに政宗は激怒して、「10年前ならいざ知らず、今更謀反を起こすつもりはない。昔も戦では一槍交えて戦おうとは思ったが、毒を盛ろうなど考えたこともない」と言い放った。
この騒動を知った秀忠は、むしろ政宗の忠誠心に感心したという。
秀忠の息子である徳川家光は、尊敬してやまない祖父・徳川家康と肩を並べて活躍した政宗のことを「伊達の親父どの」と呼び、心から慕っていたといわれる。
正宗は秀忠を招待した2年後の1630年に、今度は家光を仙台屋敷に招待した。
政宗は家光のために、全国から集めた山海の珍味を用いた献立を考案し、味見や配膳も自ら行った膳を家光に提供した。
その宴会は会場を変えて2回行われ、鶴の吸い物や具だくさんの雑煮など、約54種もの料理が供されたという。
政宗が「食」にかけた情熱
人をもてなす時は、趣向を凝らした豪勢な料理を提供していた政宗だが、日々の食事に関しては「朝夕の食事うまからずとも、ほめて食うべし」という言葉を残している。
普段は倹約を心掛けた生活を送り、大事な客人を招く時には豪勢な料理と工夫を凝らした演出でもてなして喜ばせていたのだ。
「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」
冒頭にも紹介したこの言葉は、大事な客人から信頼を得るためには、もてなしの品は人任せにせず自ら作ったものでなければならないという意味を含んでいる。
いつ食事に毒を盛られ、命を取られるかわからないという戦国の世を生き抜いた政宗だからこそ、命や健康に直結する「食」に注目し、人に出す料理の味や見た目はもちろん、その安全性にもこだわった。
政宗の「食」と「もてなし」に対するこだわりは、現代まで続く政宗ゆかりの料理と共に、これからも受け継がれていくだろう。
参考文献 :
平重道(編)『伊達治家記録 3』
佐藤 憲一 (著)『伊達政宗の素顔: 筆まめ戦国大名の生涯 (読みなおす日本史)』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
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