本多正純とは
本多正純(ほんだまさずみ)は、徳川家康の軍師として仕えた本多正信の長男で、父と同じく側近として家康の下で重要な働きをした武将である。
武将として戦場での活躍はないものの、家康の手となり足となり、家康の命を忠実に実行に移した頭脳明晰な男だ。
優秀ゆえに疎まれて、あらぬ疑いをかけられ失脚していった悲運の大名・本多正純について追っていく。
生い立ち
本多正純は永禄8年(1565年)三河国の松平家に仕える本多正信の長男として生まれる。
正純が生まれた頃は三河一向一揆の最中で、父・正信は一向一揆側につき、主君の徳川家康の敵方となっていた。
その後、三河一向一揆が和睦となり、父・正信は大和の松永久秀のもとに身を寄せた。
正純は母と共に家康の家臣・大久保忠世に保護されることとなる。
天正12年(1584年)大久保忠世の仲介で父・正信の帰参が許されると、19歳だった正純も父と共に家康に仕えた。
正純も父・正信と同様に策略家であったことから、家康に重用されて謀臣として仕えた。
慶長元年(1596年)正室である酒井重忠の娘との間に、長男・正勝が誕生している。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが起こる。
家父・正信は家康の嫡男・秀忠と共に中山道を進軍するが、真田昌幸との上田城の戦いで時間を取られてしまい、関ヶ原の戦いの本戦に遅参してしまう。
遅参した秀忠を怒った家康に対して正純は「若君が遅れたのは補佐をしていた父・正信の責任、父を処罰して勘気を解かれますように」と取りなしたという。
遅参を許された秀忠は正純に感謝したという話が伝わっている。
幕政を牛耳る
慶長8年(1603年)家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、正純は父と共に更に重用されていく。
慶長10年(1605年)家康が将軍職を秀忠に譲って大御所となり駿府で大御所政治を行うと、正純は駿府で、父・正信は江戸で秀忠を補佐した。
これで正純は家康の最側近となり、家康への取り次ぎは正純を介して行われることになり、正純の立場や権力はとても強くなっていく。
その間に正純は下野国小山藩3万3,000石の大名になっている。
江戸の秀忠には大久保忠隣が側近として仕えて正純の政敵となり、父・正信は家康と秀忠の調整役を務めていたという。
慶長17年(1612年)正純の家臣・岡本大八による詐欺事件「岡本大八事件」が起きてしまう。
失脚を恐れた正純は慶長19年(1614年)父・正信と共に大久保忠隣の排除を画策し、忠隣は改易されてしまった。
このようなことがあって、正信・正純親子は権力を強めて幕政を牛耳るようになる。
特に正純は、駿府にいる大御所の取り次ぎとして権力や発言力を強めたために、江戸にいる秀忠や側近たちから疎まれ出してしまうのだ。
大坂の陣
慶長19年(1614年)家康による豊臣家へのいちゃもん事件、方広寺鐘銘事件が起こる。(※一説には家康に仕える黒衣の宰相こと金地院崇伝が画策したといわれる)
これに正純も関与し、豊臣方の家老、片桐且元をうまく失脚させ、大坂の陣開戦の口実を作った。
正純は家康の側近として大坂冬の陣に出陣し、和睦交渉では徳川方の代表として阿茶の局と共にその任にあたる。
大坂城の堀の埋め立ては、正純が家康に進言したものだとされている。
正純は現場を取り仕切り、外周の外堀だけを埋めるだけではなく、大坂城のほとんどの堀を埋め立ててしまう。
当然豊臣方は猛抗議をするが、正純はうまく抗議をあしらいながら工事を進め、大坂城を丸裸にしてしまった。
翌年の大坂夏の陣にも家康の側で仕えて、その後、豊臣家は滅亡した。
後ろ盾を失う
元和2年(1616年)家康が亡くなると父・正信も後を追うように死去する。
父・正信は正純に「3万石までは本多家に賜る分として受けよ、それ以上は望むな、決して受けてはいけない、もし受ければ禍(わざわい)が降りかかる」と説いていたという。
正純は家康が手元に残していた遺品の分配を行い、家康の死後は江戸に入って秀忠の直属となり5万3,000石の年寄(老中)となった。
しかし、幕政には秀忠の側近・土井利勝や酒井忠世がいて派閥を形成、正純は異分子扱いとして敬遠されてしまう。
元和5年(1619年)福島正則が改易となった時に正則は、城の改修を正純に届け出ている。
しかし、正純の画策なのか改易理由は城の無断改修だったという。
正則改易後、正純は家康の遺命として加増されて宇都宮藩15万5,000石となる。
譜代大名としては上位の石高となり、武功が少ない軍師的な役割で側に仕えた大名としては異例の石高となった。
元の宇都宮城主の奥平忠昌は、古河11万石に移封となってしまう。
当初は正純も父の遺言を聞いて固辞していたが、結果的に拝領してしまう。
これによって敵の多かった正純は、自分で自分の首を絞めてしまうのだ。
幕臣の世代交代が進み、秀忠の側近である土井利勝や酒井忠世らが台頭していたが、正純は家康の後ろ盾を失くしてもなお重要な地位にいたために、秀忠や土井利勝らに疎まれていたのだ。
宇都宮城釣天井事件
元和8年(1622年)出羽国の最上氏が改易となった時、正純は上使として山形城の受け取り役を務めた。
その直後、正純のもとに将軍・秀忠の暗殺を謀った疑いの糾問使が送られた。
内容は「宇都宮城の無断修築」「秘密裏に鉄砲を製造」「宇都宮城内に釣天井を仕掛けて、日光参拝の際に立ち寄る秀忠の暗殺を画策」など11か条による罪状嫌疑であった。
この情報を幕府にもたらしたのは、古河に移封となった奥平忠昌の祖母・加納御前(家康の娘・秀忠の姉の亀姫)であり、加納御前はかつて正純によって失脚させられた大久保忠隣の息子に嫁いでいたのだ。
正純は11か条の容疑については明確に否定したが、後から追加された3か条には申し開きが出来なかった。
その3か条は「幕府直属の根来同心を無断で処刑」「鉄砲を無断で購入」「宇都宮城の石垣を無断で改修」であった。
秀忠は宇都宮の所領を召し上げ、出羽国5万5,000石の移封を命じた。
正純は「謀反などまったく身に覚えがない」と潔白を訴えたために秀忠は怒り、本多家は改易として知行は1,000石となった。
正純の身柄は秋田の久保田藩主・佐竹義宣の預かりとなった。(宇都宮城釣天井事件)
佐竹義宣は正純を厚くもてなしていたという。
しかし、もてなされていたことが幕府に知られると、正純と息子・正勝は出羽国・由利に流罪となり、横手城に幽閉された。
幽閉された部屋は逃亡防止のために四方を柵で囲まれて、襖や障子も釘づけされて板戸で覆われて光も入らず、外出も許されなかったという過酷なものだった。
寛永14年(1637年)3月10日、正純は幽閉された場所で、73歳の生涯を閉じた。
息子の正勝は健康を害して、正純の死よりも7年も前に35歳で亡くなっている。
おわりに
実際には宇都宮城に釣天井は無かった。
本多正純の冤罪は証明されたが、因果応報の結果となった。
徳川家臣団から疎まれていた父・本多正信は、常日頃から正純に「3万石以上は受けるな」と言いつけていたが、その教えを守らなかったことで本当に禍(わざわい)が降りかかった。
家康の優秀なブレーンとして信任を得た正純は、二代将軍・秀忠の代になっても権力を誇示しようとしたために、逆に謀略にあい悲惨な最期を迎えてしまった。
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